軍のスパイ暗躍

0212.gifあるときビルマ(現在のミャンマー)のラングーンに外米積み込みに就航した。

従来本船には専任の事務長は不在で、チーフオフィサーが兼務していた。なぜかこの航海に事務長なる人物が乗り込んできた。彼は英語が得意なので、現地で買い物するときなど皆から重宝がられていた。私も彼の巧みな話術に便乗して、背広の生地を買った筈である。

某日。サンパンで帰船する船員に紛れ込み、事務長と一緒に現地青年数人が密かに乗船してきた。多分、日本への留学生なのかと思っていた。

数学が得意の電気技師の出問に正解するなど、教養のある青年たちのようだった。

荷役が終わったので日本向け帰港の途につき、マラッカ海峡を通過してシンガポール沖にさしかかったとき、英軍機が一機飛来した。

そのとき事務長が、デッキに出ていたこの青年たちに「すぐ室内に入れ」と、厳命していた。一体彼らは何者だろうと船員たちは不審に思っていた。

東京に入港間近になったとき、彼の事務長が参謀本部に「託送品授受」の電報を打ったので、やっと彼は軍の諜報機関の者と推察された。

この青年たちは戦中、戦後どのような人生をおくったことであろうか。

 

「軍のスパイ暗躍」追跡情報(平成二十年十一月)

―ラングーン米積取り船による南機関の工作か?

南機関発足

昭和十六年二月一日 参謀本部に陸海軍関係将校が参集し、ビルマの独立支援目的の「南機関」(機関長・参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐)が、大本営直轄機関として設立され、同大佐は同年三月、大本営陸軍部から、ビルマルート遮断策について研究するよう内示をうけた。当時ビルマに関しては海軍がラングーン在住の予備役大尉国分正三を通じて早くから情報収集に努めていたが、陸軍側にはあまり情報は無かった。それで鈴木大佐は活動開始にあたって上海の特務機関員の樋口猛、興亜院の杉井満、満鉄調査部の水谷伊那雄らに協力を求めた。

鈴木大佐は同年六月、日緬協会書記兼読売新聞特派員「南益世」と偽ってラングーンに入り、タキン党員と接触の結果、アウン・サンとラミヤンがアモイに潜伏していることを知り、彼らを日本に招くこと決めた。十一月、アウン・サンたちはアモイの日本軍特務機関員によって発見され日本に移送された。鈴木大佐はアウン・サンに「面田紋二」、ラミヤンに「糸田貞一」の偽名を名乗らせて郷里の浜松にかくまった。

アウン・サンたちの来日を契機に、陸海軍は協力して本格的な対ビルマ工作を推進することを決定。当面、対外的には「南方企業調査会」と、偽称することとした。

主要メンバー

陸軍 −鈴木敬司大佐(機関長)、川島威伸大尉、加久保尚身大尉、野田毅中尉、高橋八郎中尉、山本政義中尉(川島大尉、加久保大尉、山本中尉は陸軍中野学校出身)

海軍 - 児島斉志大佐、日高震作中佐、永山俊三少佐

民間 - 国分正三、樋口猛、杉井満、水谷伊那雄

鈴木大佐は南機関の本部をバンコクに置き活動を開始した。南機関の任務は、世界最強のイギリス情報機関を相手として、日本の関与をいささかも漏らすことなく謀略を成功させるという極めて困難なもので、次のような行動計画を立てた。

ビルマ独立運動家の青年三十名を密かに国外へ脱出させ、海南島または台湾において軍事訓練を施す。訓練終了後は彼らに武器、資金を与えてビルマへ再潜入させ、武装蜂起の準備をさせる。武装蜂起の時期は昭和十六年年六月頃とする。

同年二月十四日、杉井とアウン・サンの両名に対し、ビルマ青年の手引きを命ずる作戦命令第一号が発せれた。両名は船員に変装して、ビルマ米輸送の日本貨物船でラングーンへ向かい、第一陣のビルマ青年四名の脱出を成功させた。以後六月までの間に、海路及び陸路を通じて脱出したビルマ青年は予定の三十名に達した。この三十名が、後にビルマ独立の伝説に語られることになる「三十人の同志」である。

四月初旬、海南島三亞の海軍基地の一角に特別訓練所が開設され、ビルマ青年が順次送り込まれて過酷な軍事訓練が開始された。ビルマ青年たちのリーダーはアウン・サンが務めた。訓練用の武器には中国戦線で捕獲した外国製の武器を準備するなどして、日本の関与が発覚しないよう細心の注意が払われた。グループに比較的遅れて加わった中にタキン・シュモンすなわちネ・ウィンがいた。彼は理解力に優れ、ひ弱そうに見える体格の内に凄まじい闘志を秘めていた。ネ・ウィンはたちまち頭角を現し、アウン・サンの右腕を担うことになる。

 

謀略作戦の実態

独立運動指導者を日本に亡命させる目的で、同年二月十五日、杉井満とアウン・サン(日本名;面田紋次)の両名が偽造船員手帳(事務長;杉井、事務員;面田)を携行。船員服を着用して川崎在泊中のビルマ米積取りの大同海運「春天丸」に乗り込みラングーンに向かった。

この偽装船員乗り込みの件は、南機関長が秘密裏に船会社と逓信省に根回ししていた。他方、船長には二人の任務を伏せていたが、春天丸がシンガポール通過の前日、任務の一端を明かし、ある程度の針路命令権を承認させ、同時に一等運転士と機関長にも協力を求めた。

春天丸はバイセンに寄港し、船員に税関ゲートに警官不在を偵察させ、杉井、本船機関長、アウン・サン、ほか二名の船員とともに、バナナ買出し風に装って税関ゲートを通過。四百メートルほど先の木陰で、杉井が腹に巻いて携行した「ロンジー」をオンサンに着用させ、偽歯と留比を手にして間道からバイセンの町に送り込み、ヘンサダ経由の汽車でアウン・サンをラングーンに潜入させた。

その後、春天丸は英官憲の人員点呼をうけたが、予め関係書類は一名減じていたので無事クリアしたので、同船はラングーンに回航し、ビルマ米積み込み荷役に従事した。

アウン・サンが引率する脱出者収容時刻を翌日の二十三時三十分から一時間の間と内定していたので、杉井は上甲板、一等運転士は船首、船長は船尾、その他船員も適所に配置して受け入れ態勢を整えていたが、かねて打ち合わせの艀伝いのルートから定刻までに姿を見せなかった・・・事後確認では、在船の警官四名の監視下では予定コース進入は困難のためアウン・サン一行は一時、船尾係留浮標上に待避。係留鎖をよじ登って、一同無事決死的潜入に成功したのであった。

かくして脱出第一号作戦の四名は三月二十三日、東京に帰着することができた。

引き続き、第二号作戦は木俣豊次とフラミヤイン(日本名;糸田貞一)により八名。第三号作戦は杉井満により三名。第四号作戦は水谷伊那雄により十一名の脱出に成功している。

 

恵昭丸による脱出工作

目下、関連文献からは恵昭丸での脱出工作を明記したものが見あたらないが、工作の時期および工作員は偽装事務長一名、脱出人員三名であったことから杉井満による第三号作戦の可能性が高い。

 

アウン・サンのプロフィール(一九一五〜一九四七)

ラングーン大学在学中から民主主義運動に熱中、戦前からタキン党(タキンはマスターの意味で、ビルマ人がビルマ国の主人であることを意味する)書記長としてビルマ有数の政治家の一人だった。

イギリス官憲の弾圧を逃れて地下に潜行。一九四〇年日本に亡命して開戦と同時に南機関が編成したビルマ独立義勇軍参謀として日本軍に協力してビルマ戦線で戦った。

一九四三年に日本の工作で成立したバー・モー内閣の国防相に就任。その後、日本の軍政に反発して、ビルマ国防軍を組織し、英軍に協力して抗日戦に踏み切った。

彼はビルマの完全独立後の指導者になる声望があったが、一九四七年、戦前の英国傀儡政権の首相だったウー・リオ一派の凶弾に倒れ、三十二歳で亡くなったが、暗殺された七月十九日は「殉国者の日」として、ミャンマー国民の休日になっている。
また、ノーベル平和賞受賞のスー・チーさんはアウン・サンの遺児である。

 

付記

本稿について、改めて検証を試みたい思いがあるが、筆者は高齢柄至難と思う。

 

参照文献

ビルマ独立秘史 泉谷達郎著 徳間文庫
 資料・研究ノート ビルマ国軍史(その一)大野 徹 大阪外国語大学

関連WEB
春天丸サイト
東南アジアの歴史
アウンサン将軍

©2008 Kaneo Kikuchi

表紙 目次 前頁 12 次頁