さらば恵昭丸

兵庫県尼崎港を船出してから早くも二年が過ぎ去り、四六時中同じ釜の飯を食う五十余名の大家族的仲間とともに、太平洋を東奔西走して異国を見聞。山育ちのヒヨコも、潮やけしたいっぱしの船乗りになった。

その間、久木原局長等親しい幹部の交代もあり、私はかねて二年をめどに、陸の空気や技量を充電したいと思っていたので、昭和十七年三月に下船した。

当時、大会社以外は予備員制度がなく、一度下船すると会社との雇用関係が切れて給与は出なかった。パーサー(事務長)兼務の門広チーフオフサーが、給料日の都度私に「貯金しろよ」と忠告してくれた真意が、下船してから納得できた。

時局がら、海運界にも戦時体制が敷かれ、同年四月「船舶運営会」(各船会社所有全船舶の運航と船員の配乗を一元的に管理する特別法人)が設立されたので、下船中も予備員として基本給が支給されるようになったことは幸いだった。

©2002 Kaneo Kikuchi

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