金野倉生
私の蔵書、元東京商船大学学長 浅井栄資著「慟哭の海」第四章 日本商船隊の壊滅 2「海上輸送に敗れる」に、表題に関し、政・軍・民、要路の証言が載っていたので要旨を以下に摘録する。
第八十八回帝国議会での質問に対する答弁から(参照 衆議院議事録)
質問者 芦田均 「大東亜戦争を不利なる終結に導きたる原因並びに所在等」
総理答弁要旨
・ ・・ガダルカナル島からの後退以来・・・海上輸送力の低下のため・・・軍需生産は至難・・・汽船輸送力は喪失船舶の増大と、船腹の南方抽出等のため開戦当初の四分の一程度となって運航能率が著しく阻碍され、新船建造や補修も意の如くならず
・ 「海上輸送力低下」は戦力維持に甚大なる影響を与ふるにいたった・・・以下略。
・ さらに総理は・・・戦没せる前線将兵に対し深甚なる敬意を表し、「また、第一線将兵に変わることなき危険を冒し、幾多の尊き殉職者を出しつつも、敢然として長期に亘り、海上輸送の完遂にたゆまざる努力を示してまいりました船員諸君に対し・・・心から敬意を表します・・・以下略」と答弁している。
米国戦略爆撃調査団報告での証言要旨
(問)日本側の主な敗因は。
(答)昭和二十年に入って、特に飛行機生産の低下の最大原因は本土爆撃だと思う。しかし、日本の戦力全般では船舶の不足による南方からの原料輸入が殆んど止まったことが、一番大きな打撃と思う。
(問)アメリカの対日兵力のうち、どの兵力が日本の戦力を枯渇させるのに一番有効と思うか。
(答)南方からの資源補給が断たれたこと。それは主に船舶の喪失と輸送手段がなにも無くなったことからきたものでした。
太平洋戦争に関する戦記の中でもっとも強い印象をうけたのは、米国の海軍史家モリソン少将の太平洋海戦記で、その中に「日本の将兵は忠誠で勇敢に実によく戦ったが、指揮系統が上にゆくほど無能になり、戦争の最高指導者は白痴に近かった」と述べている。これは残念ではあるが「海運」の面から見る限り正にその通りだと言わざるを得ないと、次のように述懐している。
開戦時、日本の船舶保有量は六百三十八万総トンに過ぎず、これだけの商船隊で大海洋作戦に踏み切った日本の最高指導者の判断自体「白痴」といわれても仕方がないと思う。それは、日本の現在保有の船腹量四千万総トンでは、今の日本の輸出入の三割しか運べない実情からも判然とする。
あの戦争は本質的な海洋作戦で、南方資源を入手〜日本に環送〜工業力で加工して戦力化〜戦争続行が基本構想の筈なのに、それなら一にも、二にも船舶ということは自明であって、戦力は海上輸送力に比例することは初歩的方程式であるが、結局、戦争の帰趨は「船」次第にもかかわらず、この方程式を知らなかったとしたら「白痴」ということになる。(「昭和船舶史」から)
同氏は陸軍船舶砲兵隊第二連隊の将校として、輸送船団の凄惨な戦闘体験を著述し「船舶砲兵」「続・船舶砲兵」『戦時輸送船団史』等を刊行しているが、以下に「続・船舶砲兵」より一部抽出する。
輸送船の行動は終始隠密裡の活動であって、船舶輸送ほど苛烈にして救われるものがなく、ひとたび出港すると、如何なる運命が待ちうけているか、護衛艦艇が随行していても決して油断できなかった。
そこで自衛策として、ある程度の兵装を施し、船舶砲兵隊(陸軍)あるいは警戒隊(海軍)が乗船して敵襲に備え。当然、乗組員も見張りの強化につとめ、共同して敵潜水艦の雷跡や敵機の早期発見につとめ、魚雷や爆弾回避を切り札に敵と対処したのであるが、戦局後半には、敵は物量をもって輸送船攻撃に拍車をかけ、潜水艦だけでなく航空機による攻撃も日ごとに激しさを増し、味方輸送船は随時、随所で容赦なく撃沈される悲運に陥り、その状況は全く一方的で、やられっぱなしの目を覆いたくなるような戦いであった・・・しかしながら、このような苛烈極まる状況下にあって、なお敢然として輸送作戦に挺身した船員諸氏の行動には、ただただ敬服以外の何ものもない。船舶砲兵隊・警戒隊また然りで、共に船上にあって身を戦火にさらし、時には刺しちがえ戦法をもって敵に対処した知られざる活動を、国民は忘れてはならないのである。
戦争は軍人だけがやったのではない。常に第一線で奮闘した船員もまた立派な戦士であった。
これらの船員戦士が陸海軍を上回る損耗率を出した事実を思うとき、うたた感慨に堪えないものがある。
同氏は海軍兵学校卒業後、太平洋戦争時は駆逐艦航海長、離島指揮官等。戦後、海上自衛隊を経て防衛大学校教授。海戦史の研究家として著名で、著書「大東亜戦争と戦史の教訓」のなかに以下の見解がある。
海上護衛戦と言えば、少しく大東亜戦争史を学んだ者であれば、誰しも知るわが海軍のおかした作戦指導上の失敗の一つである。
そこで、何よりの関心事であるその原因について考えるとき、私の胸に強く響くものは、米国が行った対日無制限潜水艦戦のことである。
米国はハワイのわが奇襲を受けるや、即日これを宣言し、実施に移したのである。これこそわが海上交通を徹底的に破壊し、継戦力を枯渇に追い込んだ元凶であった。・・・中略・・・しかしながら、わが海軍においては、否、わが国家として甚だしく不準備であり、足元に火がついた後にも、なお、適切な対処が出来なかったのである。人材多しとした海軍を顧みて、まさに謎といってよいほどの手抜かりであり、その罪万死に値すると言っても過言ではない。
日本商船隊はすぐる第二次大戦では、実に勇敢に戦ったことを忘れてはならない。敵の潜水艦が跳梁する海面を、多大の犠牲を払って輸送に任じ、あるいはガダルカナル島や、レイテ島などの戦いでは、先頭艦艇に伍して爆弾、弾丸の矢ぶすまをかいくぐったことすらあった。その危難を冒しての敢闘は、国家の期待に十分以上に答えるものであった。(「シーレーン防衛の盲点」より)
同委員会が昭和五十二年七月に編纂した「太平洋沈没艦船遺体調査大鑑」には、「商船隊の敢闘」として次のように述べている。
太平洋戦争は正に輸送戦争であった。広大な太平洋の島々に散開した兵員に対する補給、本土に対する南方資源の輸送の成否が戦争の勝敗を決める。したがって商船隊の活動は、即、戦闘行動であって、武装した軍艦にも増す苦闘があったわけである。
当時、大本営発表は景気のよい戦果は軍艦マーチの前奏入りで放送されたが、武器なき商船隊の悪戦苦闘については、何の報道もされなかった。<軍人第一主義>の戦争指導の放漫、冷酷さが今更に反省される。
日本の戦争指導者たちが、近代戦における補給輸送部門の大切な地位を重視しなかったことは明白で、ドイツ側が、貨物輸送船に対する武器として有効なものは潜水艦を措いて他にないことを指摘。日本の潜水艦隊を連合軍の商船隊攻撃に使用するよう再三再四口を酸っぱくして促したとき、日本側は、日本潜水艦は敵の軍艦攻撃にしか使わないのだとはねつけたという。
米国は当時真珠湾の災厄によって日本に反撃できる海軍艦艇は潜水艦のみで、即日合衆国作戦部長は、島帝国日本に対し「無制限潜水艦戦」の実施を下令し、これによって潜水艦部隊は決然と通商破壊戦に挑み、日本の南方占領地域からの戦力資源環送ルートに待ち伏せして日本商船隊を次々と攻撃、島国資源小国の継戦力崩壊に寄与させたと著書に明記している。
関連参照Web
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』<太平洋戦争>
2 戦争の経過 2.4 戦争末期
©2008 Kaneo Kikuchi