本船は不定期貨物船で、北米航路にも度々就航した。
航海日数を短縮するため、アリューシャン列島寄りの大圏コースが常用で、長大なうねりに翻弄され、片道約二週間の航程だったと思う。
本船の無線電信送信機の電波は、沿岸用の中波と沖合用の長波だけで、遠距離用の短波帯の設備はなかった。
沖合からの無線通信は長波送信機だけが頼りで、東経百八十度付近が北海道の落石海岸無線局と交信できる限界だった。電波が微弱になると相手局の信号が送信用電源のモーター雑音で聞きとれなかった。
このため電波発射直後にモーターを停めるテクニックには少なからず苦労した。
この地点を過ぎると、他船の無線中継に頼るしかなかった。非常用の予備送信機(写真)は原始的な火花式で、送信機とアンテナ間の露出している銅管類をピカピカに磨かないと、局長のご機嫌が悪かった。
受信機はチックラー・コイルが露出しているオートダイン型で、船の動揺でコイルの間隔がずれると感度が変化するため、辞書などで動きをとめる工夫が、ユーモラスだった。またこの受信機には鉱石検波器を付加し、故障したときの予備受信機の機能があった。
太平洋航路の日本の各船は、自船の正午位置を放送する習わしがあり、視認できなくても連帯感があった。
船内の楽しみのひとつに「船内新聞」があった。定刻に船舶向新聞電報を受信、清書して掲示するのが私の担当であった。
特に相撲や野球などは人気番組で、折角苦労して書いたのに漢字ミス等を指摘されると内心面白くなかった。 これは単調な遠洋航海の、娯楽に飢えた生活からでもあったろう。
その後短波受信機が設備され、遠方でも新聞電報が受信可能となり、私のノルマが増えてしまった。
©2002 Kaneo Kikuchi