占領地航路の高瑞丸こうずいまる

南方航路

昭和十七年六月九日、私は舞鶴鎮守府所属徴用船高瑞丸(七〇七二トン、乗組員四十八名)に乗船を命じられた。

同船はラバウル攻略作戦の輸送任務から帰国したばかりで、戦火のほどぼりが覚めやらぬためか、大半が交代するありさまだった。

当時本船は、わが社の最優秀船で船長はベテランの渡辺礼儀氏であった。

局長は船務に小うるさいと評判の林銀次郎氏で、いささかうんざりする場面もあった。

本船には最新型の無線機器が設備されていたが、敵の無線探知防止から電波管制が厳しくなり活用できない状況に追い込まれていた。

スーパー方式の高性能受信機が設備されていても、林局長は故障すると大変だからと言って使用させなかった。  彼は古いタイプの無線技師でハード面には弱く、軍指定発信電波の自主調整にも消極的。万事がこんな調子で、宝のもちぐされの感がなきにしもあらずなので、私はこっそり活用のスルリを楽しむように立ち回っていた。

高瑞丸の就航先は昭南島(シンガポール)や蘭印方面の占領地回りが主であった。

緒戦当時、この海域のシーレーン(海上通商の常用航路)の制海、制空権は確保 されていたので、警乗の警戒隊員(対空、対潜武器専従の海軍兵)の任務は見張りが 主だった。往復スルー海コースが常用で、灯火管制下、キラめく南の星座は一瞬、戦時下の緊 張を癒(いや)してくれた。

ジャワ島ではスラバヤに入港。現地人は日中の暑さをさけ、夕刻から街にくりだして賑わっていた。私たちもペチャ(人力三輪車)に乗り、ジャランジャラン(散歩)にでかけ南国情緒にひたった。ここは内地とくらべ衣食が豊富で住民も親日的であり、まるで宝の島のようだった。

ある日、大日本航空(株)の台湾出身の同級生G君と街で偶然出会い、彼からフルコースのジャワ料理を奢られ、次々に運ばれるご馳走に目を見張ったことも懐かしい思い出である。

©2002 Kaneo Kikuchi

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