高栄丸船長 渡辺礼儀
第二次大戦の結果、日本は敗戦国として、米軍や他の関連各国軍隊の進駐によって、国内は種々の制約を受けた。
海運も又「スカジャップ」(連合軍総司令部内の日本商船管理局)の統制下にあり、日本船としては勿論遠洋航海など思いもよらず、又之に配船する適船も得られぬ状況であった。斯の様な時に当たり、世界三大グレイン会社の一であるコンチネンタル・グレイン社と、大同海運との間に傭船契約(アルゼンチン行きの)が成立した。
会社としては、日本船として戦後遠洋就航の第一船であり、国家的な見地に立って、経済面の犠牲を覚悟の上で、当時たまたま幸運にも戦禍を免れた一万屯級の社船「高栄丸」を以て之に配船することを決定した。
同船は先ず八幡製鉄から亜国向けの「ビレット」を満載、次いで鉄線コイル若干を上積みするため神戸港に回航した。
翌昭和二五年六月二四日正午を期して、戦後の第一船として多数官民の歓送を受け、プラスバンドの奏でるホタルの光に送られて花々しく神戸を出港、亜国への壮途についた。
この晴れの壮途も忘れえぬ思い出の一である。当時灯台は破壊又は戦略的に消灯されていたので、出港後苦痛の航海を続けた。そして四〇有九日を経て、目的地たる亜国のブエノス・アイレスヘ入港することになった。
当日、埠頭には早朝から在留邦人が群衆し、手に手に小旗を打ち振り、又或者は「高栄丸待っていたぞ」と狂気連呼し、その有様は今日なお彷彿として忘れ得ぬ一コマである。
しかしながらなんといっても同年八月二四日ブエノス・アイレス市のアンバサドール大ホールに於いて開催された「ペロン大統領」招待晩餐会の情景こそ、特筆すべき想い出である。
同日は定刻二時間も前から在留邦人が会場に押し寄せ、一階から二階迄満員の盛況であった。定刻ペロン大統領は万雷の拍手、日亜両国の小旗の嵐に迎えられて正面上段に着席。会場正面には聖雄サンマルティン将軍の大肖像画を掲げ、その上方には眼にも鮮やかな日・亜両国の国旗が並んでいる。
大統領は微笑み含んで私の方へ近づかれた。二人は固い握手を交わした。席が定まるや、まず、日本式の敬礼に式は始められ、やがて警視庁楽団の伴奏によって一同規律の裡に亜国国歌と君が代が合唱された。次いで亜国開放のサンマルティン将軍のために一分間の黙祷を捧げた。
このようにして式は荘厳のうちに進められ、敗戦以来久しく禁じられていた吾等待望の鮮やかな日の丸を眼前に見て、国歌君が代が誰憚ることもなく声高らかに歌い終わったとき、急に目頭が熱くなった。この瞬間の想い出は私の終生忘れ得ぬ感激である。
それもそのはずで、私は本航海出港に先だち、進駐軍司令部に対して、船が外国の港に入出港する場合、国籍表示の意味に於いて各々その所属の国旗を掲揚する事は当然であり、更に当時台湾海峡を挾んで国府軍と中国本土との間には砲火を交えていた実情からして、その危険防止のためにも是非国旗表示が必要であることを主張したのであるが、遂にその希望は叶えられず、厳に日の丸の掲揚は禁ぜられたのである。この様な状況下にあって大統領の親日的な好意により、公式な会場に於いて日の丸を掲げ国歌君が代が斉唱されたのである。誰かこの感激を思わざらんやである。
私はこの尊厳なる会に列席する光栄に浴し、在亜の諸氏とこの感激を共にすることを得たのも、吾が社が国家的見地から英断、高栄丸の亜国配船に踏み切った御陰であると感謝しているものがある。
(参考)
一、高栄丸神戸出向
昭和二五年六月二四日正午
二、アルゼンチン国ブエノス・アイレス着港
昭和二五年八月一二日
(神戸発以来所要日数 四九日)
同月二四日 ブ市、アンバサドール大晩餐会
三、永井博士熱願のルハンの聖母像は同月
二五日、高栄丸へ移乗、同年一〇月、
原子野の長崎到着、同夜、永井博士の
如巳堂へ、そして浦上天主堂へ
四、高栄丸神戸帰着
昭和二五年一一月二四日
(神戸発以来所要日数 五ケ月)
(社史大道から抜粋。原著作権は社史にあり。抜粋の不備は著者の責に帰す。)
©2003 Kaneo Kikuchi