油槽船不足対策

近代戦は、石油が戦力持続上欠くことのできない血液であった。しかし戦争の長期化に伴ってタンカーの損耗が累増。これが代替に貨物船のタンカー転用が急務となった。

本船も昭和十七年末、二十隻の改造対象船に入り、佐世保海軍工廠で応急タンカーに改造工事を行ない、翌年早々完成した。

一月上旬佐世保で軍需品を積み込み、大同海運(株)からの南方子会社出向社員三名と沖仲仕十三名が便乗してシンガポールに向け出向。

幸い敵潜にも遭わず、約一週間でセレター軍港に入港。ここで、シンガポールの子会社(大興運輸株)出向の川崎氏、およびボルネオのバリクパパンの子会社出向の二名や、沖仲仕が下船した。

セレター軍港は、かっての英国東洋艦隊の根拠地。周辺の丘には洒落た宿舎が点在、眺望が素晴らしかった。私は仲間と白の制服で上陸し、海軍側の案内でジョホールの豪華な王宮を見学させてもらった。だが、帰船直前スコールに見舞われ、せっかくの正装も台なしだった。

 

シンガポールの次はボルネオのタラカン島に回航。ここで本船は改造タンカーになって初めて原油を満載して徳山港に向かった。

この船は、荷役中の船体トリム(釣り合い)が難しかったり、機関室に原油が浸潤するなど、危険千万な船であった。乗船中は、多少危険手当の割増しがあったが、誰もこのような船の勤務は敬遠したい思いであった。

私は、幸い社命により昭和十八年六月本船を下船したので、この危険な船務は一航海だけで返上することができた。

©2002 Kaneo Kikuchi

表紙 目次 前頁 21 次頁