高瑞丸の最後

戦史によると、これらの改造タンカーは油輸送に多大の貢献をしたが、敵潜水艦の猛威の前に次々と撃沈され、昭和十九年末には、ほとんど喪失してしまったようである。

また、会社の記録によれば、高瑞丸も昭和十八年十月十四日、比島ルソン島沖で敵潜水艦の雷撃で沈没。幸い全乗員は救出されている。

付記
 大同海運社史にある高瑞丸の沈没地点(比島ルソン島沖)には疑問がある。それは、当事乗船中の吉田機関士の手記に沖縄近海で雷撃を受け沈没とあり、また「日本商船隊戦時遭難史」には、 『昭和十八年十月三日昭南発、下津向け航行中十四日一六四四頃 27‐35N 127‐30E (那覇北北西百五十キロ付近)で,右舷百三十度 千メートル方向から雷撃をうけ、三本を回避。さらに同方向より二本が突入し、内一本が舵に命中。次いで右百度 七百メートルよりまたも一本が接近し、6番船倉に命中、激しい浸水のため十五分後沈没。 便乗者二十一名 船員三名 雇人四名が戦死、重油を推定一万トン搭載。』と記録されている。他の資料等もほぼ同様の記述であることから、大同の社史にある沈没地点は誤りで、後者の戦記の地点が正しいように推定されるので、さらに確認につとめたい。
  大同の社史では船員戦死者ゼロとなっていたので、そのように本誌に載せたところ、愛読者より ”他の資料には戦死者あり” となっている、と忠告をうけたので、同船生存者に確認したところ「沈没後海軍に救出され佐世保に上陸。沈没は軍極秘とて小人数毎に旅館に分宿させられたので戦死者の有無は不詳」とのことでした。
 大同海運は他社と合併のため当時の記録が無く、今般殉職船員顕彰会に問い合わせたところ、高瑞丸の記録無しと回答がありました。戦没した船で戦死者があれば、当団体の名簿に登載される筈で、該船の記録がないことは、沈没時船員の戦死者が無かったものと認められ、会社の記録に信憑性があるものと思います。

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©2002 Kaneo Kikuchi

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