大艦隊発見

その後、近くのコロン湾(ブスアンガ島)の陸軍基地に向かっていたところ
 「敵味方不明の大艦隊発見!」の報に、船内は一時ざわめきたった!

おそるおそる接近したところ、日本艦隊と確認。胸をなでおろした。

私は日本艦隊を間近に見たのは初めてで、実にキレイに船体が整備されて、錆だらけの 輸送船などとはくらべものにならなかった。 (戦後史によると--同艦隊はレイテ殴り込みの志摩艦隊のようで、この美しい船体の化粧は--出陣の晴れ姿であったと思う)

 

○ 著者付記

 

コロン湾で目撃した日本艦隊は残存志摩艦隊か!

昭豊丸がスルー海で米機に爆沈されたとき僚船共同丸が救出し、近くのコロンの陸軍基地に向かう際、数隻の日本艦隊がコロン湾に潜んでいた。艦隊側からの手旗信号は目撃したが、艦名は未確認のため事後各種戦記を精査中のところ下記の記録を発掘し、この艦隊は 那智 足柄 霞 不知火の4艦と推定される。

したがって、小著の「大艦隊発見」の項の括弧内付記の・・・この美しい船体の化粧は、出陣前の晴れ姿であったと思う・・・は誤りであるが、同艦隊は敵と戦火を交えないで退避しために、戦痕を視認できなかったものと思う。

須磨艦隊のスリガオ海峡退避行動

志摩艦隊は西村艦隊の2時間後にスリガオ海峡に到着した。この際魚雷艇の攻撃を受け軽巡阿武隈が被雷した。3時25分、志摩艦隊は戦闘序列で突入を開始したが、旗艦の那智が最上を炎上停止した敵艦と誤認して転舵、8ノットで動いていた最上と衝突した。敵情が不明であるのと味方の惨状をみて、突入を断念、海峡外で様子を見ることにして退避をはじめた。

4時10分、オルデンドルフ少将は同士討ちの報告を聞いて砲撃を中止させた。巡洋艦と駆逐艦は残敵の掃討と救助活動をするべく南下を開始した。

当初は多数の生存者が海面を漂っていたが、大半が米軍の救助を拒否して自決、または近くの島に上陸した少数の生存者も丸腰だったため殆どが原住民の襲撃により殺害され、生存者は沈没した全艦合わせて10数人だった。特に最初に大爆発を起こした戦艦扶桑は、艦長以下1637人全員が戦死し、生存者は1人もいなかった。

阿武隈の護衛に駆逐艦潮を派遣してマニラへ向かわせ、最上には駆逐艦曙を護衛にあたらせてコロン湾に避退するよう命じたが、最上はその後空襲を受け最終的に乗員の退艦後、曙の魚雷で処分され、翌日の11時28分、阿武隈もアメリカ陸軍機の空襲を受けて沈没した。志摩艦隊の本隊である、那智、足柄、霞、不知火は何度か空襲を受けたものの、損失艦なくコロン湾に到着した。不知火を栗田艦隊の駆逐艦早霜の救援に送ったが第38任務部隊の空襲で撃沈された。

©2002 Kaneo Kikuchi

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