敗色のマニラ

素足でアスファルト舗道を踏んだら、焼けつくようだった。捨て下駄を見つけてやっと仮収容所のダンスホールに着いた。

ここでゴロ寝の一夜を過ごした途端、私は不覚にもデング熱でダウン。幸い士官だけ代理店の社員寮に移ることになった。

敗残船員もやっとベットで安眠、私はひたすら安静。食事は台湾出身の女子社員が運んでくれて、徐々に快方に向かった。 それから約一週間後。遭難船員の収容施設となっていた高層マンションに移った。

話は前後するが、前回マニラ寄港の際に在泊していた多数の輸送船は米機の空爆に遭い無残な姿で港内に横たわっていた。

そのなかには同社船の天日丸(戦時標準A型貨物船・六九〇〇トン)も混じっていた。 (大同海運社史によれば、昭和十九年九月二十一日マニラ港は米軍機約二〇〇機からなる大編隊の猛爆撃に遭い、反撃の効なく在港大型輸送船は次々と直撃弾をうけ炎上沈没した。

幸い難を免れた天日丸外八隻は空襲警報解除後、軍命によりコロン湾に避難したが、虱つぶしの敵偵察機に発見され、九月二十四日約七十機の空爆をうけ、天日丸など五隻以外の避難船は全部撃沈された。

しかし天日丸も十月二十二日マニラ港で空爆により遂に撃沈された)


 港内での沈没は、着底して船体の一部は水面上にあるので、ある程度の食糧や身回り品は持ち出せたと思う。

しかし、われわれは裸同然で救出され--無一文の哀れな敗残船員であった。

暁部隊から最小限の衣服が支給--軍靴には靴下なし--靴擦れで化膿。治療しなければならなかった。

シンガポール陥落記念日に、軍から缶ビール各一缶、全船員に特配。私はアルコールに弱かったが、試飲したらメキメキ食欲がでて体調は快復に向かった。

時々タバコの支給があり、モンキーバナナなどと交換、補食していた。

当時、マニラは多数の遭難船員で収容施設は満員だった。このような徒食船員は早めに母国に送還させるべきにもかかわらず、レイテ作戦から帰還する船がほとんど無く、やむを得ず長期待機を余儀なくしていた。

空襲警報の都度、収容先マンションの地下室に避難。今思うと、地下室には昼光色の蛍光灯があった。 当時日本では見たことがなく不思議な電灯だと思っていた。

空襲時には日本軍機は全然現れず、敵の退去後に一〜二機が飛び上がるだけだった。

当時、遭難した各船から四〜五名がマニラに残留し、軍の雑務につくことになっていた。

本船には四名の割当。船長が希望者を募ったが応募者なし。

船長は、コーターマスター(操舵専従員)が四名であることから彼らを指名した。

その時私自身も、魔のバシー海峡を勘案して残留者に手を上げようか否か迷いもあった(会社の記録--彼らは戦死殉職者に含まれているようである。)

©2002 Kaneo Kikuchi

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