八月八日午後十一時五十五分ころ、羅津の市民は
埠頭の軍倉庫が炎々と燃え、その爆発音が敵機の爆音と交錯して市民の耳にとびこんできた。
当時、港内には多数の大型輸送船が接岸し、動きがとれないためソ連機の集中爆撃にさらされた。
輸送船警乗の船舶兵や警戒隊は、自船の貧弱な銃砲で必死に反撃するも衆寡敵せず、相次いで被爆炎上。さらに雷撃機からの魚雷で沈没(着底)する等乱戦を極め、各船とも負傷者が続出した。
この非常事態に対処する軍側の情報は、何一つ輸送船側には達せられず、保船の第一は港外脱出であるが、軍に無断で離岸もできず、いたずらに被弾するばかりだった。
第一回のソ連機編隊が港内や市内の爆撃を終え、北方に姿を消すと、また第二編隊が来襲してきた。
東の空がしらむころ、埠頭付近のめぼしい建物はほとんど爆破され、延焼していた。
第一回の爆撃で,市内中央部の昭和橋傍の警察署が爆風でかなり被害をうけた。また、羅津郵便局が爆撃をうけ、電灯線が各所で切断。電話、電灯ともに使用不能になり、ラジオは全く聞けなくなった。過去、巨費を投じて築造された満鉄桟橋も、甚大な被害をうけた。
撃墜された一機の、なかば焼きただれた操縦士の死体を見た市民は、何国人だろうと合議したら、洋行体験のある歯科医が「どうもソ連人らしい」と推定した。
羅津周辺十二箇所にある高射砲陣地は、それまでに沈黙させられてしまった。
©2004 Kaneo Kikuchi