2 南洋海運 さまらん丸(四〇一三総トン)

本船は当時、羅津の弾薬倉庫前に接岸して銑鉄及び大豆を積載後、さらに五十キロ爆弾を搭載中、突如として敵機が来襲。在港船は一斉に高射砲並びに機関銃にて応戦したが、夜間は港湾封鎖のため機雷が投下され、昼夜にわたる間断なき波状爆撃に、遂に打つ弾丸も欠乏。僚船は相次いで被爆炎上、乗り揚げ擱挫、被雷沈没等で壊滅的な被害を蒙った。

本船は昼夜戦闘配置で敢闘。船橋の弾痕はまるで蜂の巣状になったが乗組員には死傷者はなかった。しかし至近弾炸裂の弾片で船砲隊員の死傷者が続出した。幸い本船は直撃弾を免れたものの、接岸岸壁の弾薬倉庫が被爆し、倉庫内の爆弾が相次いで誘爆状態となり、本船は緊急離岸作業を開始した。耳を裂く高射砲の射撃音の中、一発直撃弾を蒙れば、船尾の装置爆雷四個もろとも木っ端微塵となる状況下で、無事離岸ができたのは奇跡的であった。

十二日夜、船砲隊長は最後指令受領のため本船の救命艇で上陸「翌十三日早暁を期して強行脱出せよ」との軍命令を受領して別便で帰船したものの、昨夜船砲隊長を送った四等航海士以下、甲板員十名はそれとは知らず、空爆下で只管、同隊長の帰艇を待っていたため本船になかなか戻らなかった。

そこで船長は、十三日未明の脱出準備に際し「未帰還の四等航海士以下、甲板員十名は名誉の戦死と見做す」との名簿を作成して揚錨中・・・・薄明の中を、掛け声勇ましく帰船中の救命艇を発見。急遽、同艇を格納後抜錨して午前七時頃、連日機雷投下された危険水域を微速力にて脱出に成功した。

全速で元山に向かう途中、数次にわたるソ連雷撃機の追撃うけた。船橋では船長と船砲隊長の連携で、計六本の魚雷を見事にかわして十四日午後、無事元山に入港した。ところが現地部隊から「陣地構築のため全員上陸せよ」との指令があったが「船こそ我が戦場」と僚船三隻で船団を編成して元山を抜錨。舞鶴に帰着したのは終戦直後の八月十六日で、船砲隊員共々抱き合って男泣きした次第である。

かくして戦禍を脱出し、船共々九死に一生得て、戦後の東京船舶の主力として活躍したことを報告し,往時を偲び追憶の一刻と致したい。

(この項は、さまらん丸の山崎元航海士の手記から引用)

 

©2004 Kaneo Kikuchi

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