残存船

1 大同海運 向日丸(むかひまる)戦標船 2A 型
     (約六千八百総トン 以下同じ)

同船は門司から八月六日羅津に入港して大豆の積み込み荷役を行っていた。夜間にはB29が港外に機雷投下作戦を行ったが、陸上は爆撃しなかった。ところが、八日深夜(午後十一時五十五分ごろ)、突如ソ連機編隊の急襲で在港船団が標的になり最悪の戦禍に巻き込まれた。まさか軍に無断で港外に避難することもできず、警戒隊員が必死で応戦するのが精一杯で、隊員の負傷者が続出したため、若手船員が機銃弾運びを支援した。当時船員には防弾ヘルメットの配分が無かったので、船員は素手で弾雨下を挺身していた実情を銘記すべきである。敵は雷撃機も混じり、その一発は向日丸の船尾側に着岸中の船に命中して浸水、沈没(着底)した。次の魚雷は向日丸と、この船の間の岸壁に当たり爆発。岸壁部材が向日丸船尾の十五センチ短砲に落下、同砲が使用不能になった。また陣頭指揮中の西豊船長(六十歳)も頚部負傷のため陸上の病院に搬送されるなど、自船被弾が時間の問題となったので、船室で病臥中の小川次席通信士を急遽付近の病院に入院させた。敵機の波状攻撃は夜間も続いたので、一部乗組員を陸上に退避させ、犠牲者の抑止策を図った。

午後八時頃の空爆のときサーチライトが一機を補足。豆粒のような爆弾がパラパラと本船方向に落下してきた。その一発が目前の岸壁倉庫に命中、大音と同時に甲板に火の粉が降ってきた。倉庫保管の大豆が火炎に包まれ猛火となり、向日丸の甲板部員が船から懸命に放水して鎮火させた。なお当日の本船警戒隊の戦果は敵機一機撃墜であった。

一夜。幸い致命的な被弾もなく、十日早朝やっと暁部隊から南鮮への避航指令があり、応急手当てした船長も復船。午前六時ころ全員在船を確認のうえ離岸作業を開始するも、船尾側の沈没船が邪魔で難儀したが、老練な西船長は見事な後進操作で離岸に成功。七時半頃やっと港口にさしかかったとき、三機編隊のソ連機が急降下して爆弾を投下。向日丸の反撃を恐れ、すぐ港外に飛び去った。この爆撃を見ていた陸軍派遣の那和少尉の証言「着弾地点は本船より四〜五十メートル前方に集中したのは、敵機は船速を誤算したからと思う。本船はまだ微速だったのが幸いしたようだった。」

彼は官立無線校(現電気通信大学)出の予備士官で、暁部隊から通信連絡将校として派遣されていたが、小川次席通士が入院のため弱体した通信科を自ら支援。急迫場面に的確に即応した決断を評価したい。同少尉の後日談・・・若し上官に知れたら懲罰だった、とのこと。

羅津港外には味方艦船は見えず、単船で南下中に機関故障や、合流した第八十二号海防艦が本船を護衛中、追撃してきたソ連雷撃機に轟沈され、向日丸が生存者を救出するなど波乱な避航のすえ元山まで南下。ここから残存船団で舞鶴に帰還したのは終戦二日後の八月十七日であった。

向日丸はソ連雷撃機の追撃時には機銃の残弾を撃ち尽くして、二機を撃墜したので合計三機撃墜の戦果を挙げ、船橋前に撃墜マークを掲げたが、終戦となり何らの恩賞も無かったのは無念であった。

船員側には船長以外戦傷者は無かったものの、羅津で入院させた小川肇次席通信士は、事後の調査で八月十日羅津で戦没していたことが確認され、誠に慙愧にたえないものがある。それは、あの苛烈な空爆下での最善の選択が、結果的に仇になったからで、当時軍側から陸上の避難情報があったなら、万難を排して船に連れ戻したはずで、自船の戦没が必至でも諦めがついたと思う。

また、警戒隊員の犠牲者数は不詳であるが、十名ちかい戦傷者があったと思う。向日丸防護に勇戦した隊員各位に深謝の念大であった。
(この項は「硝煙の海」URL http://www.geocities.jp/kaneojp/ から引用)

 

©2004 Kaneo Kikuchi

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