戦没船

1 日本郵船 延寶丸 戦標船 2A 型

該船は食料積み込みのため八月初旬羅津に着いたが、待っていたものはソ連の対日宣戦布告であった。

八月九日、ソ連機は宣戦布告を待ち構えたように払暁から夜間まで羅津港を波状攻撃してきた。本船の警戒隊は全火器で応戦し、激しい銃撃音は終日船内に響いた。

午後九時、近くの岸壁に積んであった機雷が直撃され、船橋で指揮をとっていた山口船長は大爆発音と同時に落下した天井の下敷きとなり、血だるまとなってやっとはいだし、上甲板にたどりついた時、そこには警戒隊員など爆風による多数の負傷者が真吟していた。

船長は他の負傷者と共に近くの防空壕に移され、夜明けを待ってトラックで病院に運ばれた。

十日朝からの空襲は苛烈を極め、船体の各所に被弾、大破して、正午頃には猛火が船体の大部分を包み、間もなく総員退船がくだり、乗組員たちは近くの防空壕に退避したが、この混乱下、二名が行方不明になった。

午後二時軍命で同船乗組員は着のみ着のままで、重い足を引きずるように南下しなければならなかった。筆舌に尽くしがたい逃避行であったが二十三日無事釜山に着き、海防艦に便乗して二十五日下関に帰り着いた。

他方、山口船長が入院した病院ではソ連軍上陸の情報に浮き足立ち、医師の中には患者を見捨てて逃亡する者も多く出て混乱を極めた。同船長は同船乗組員の羅津退去を知り、病院を出て南下するトラックに便乗を頼み清津に逃れ、軍命で咸興の陸軍病院に転送、以後各地を転々・・・最後は、約4年半シベリアに抑留された後、無事帰国した。

 

©2004 Kaneo Kikuchi

表紙 目次 前頁 03-68 次頁