2 日本郵船 襟裳丸 戦標船 2A型

同船も八月上旬羅津に回航。八月九日未明から空襲警報があり、朝になって敵機はソ連機とわかった。ソ連機は二〜三時間間隔で来襲し、米機の投下機雷で羅津港内は、袋のねずみとなっている船舶に猛撃を加えた。

積荷中の襟裳丸も午前九時過ぎから攻撃を受け、操缶手一名が直撃弾で即死し、船体も各所に被弾して多数の破口を生じた。その間、空襲の合間をみて離岸し、港内に転錨した。

午後になると敵機は中型攻撃機を混じえ、空襲は一段と熾烈になった。至近弾のため船内の各所は破壊され、機関にも損傷を生じた。午後八時には更に夜間攻撃を受けて大破し、はちの巣のようになった襟裳丸は、浸水のため左舷に大きく傾斜して次第に断末魔に近づいた。

翌十日午前六時頃から負傷者等を逐次陸上に避難させたが、再び来襲した敵機の直撃弾を受けて船尾より沈下しはじめ、午前十時頃には排水不能となり、総員は陸上に避難した。

徳田一等通信士は、その前に右足を負傷して、救命ボートで陸上の救護所に送られた。

救護所は倉庫のような所で、負傷者たちの血のにおいで、徳田は一夜を暗澹たる気持ちで過ごし、十日午後トラックで清津陸軍病院に運ばれた。

徳田はトラックの上から、羅津港で爆発を続ける船舶の悲惨な最期を目撃しながら、すべては終わったのだと思った。トラックが羅津の町を離れる頃、清津に向かって延々と長蛇の列をつくって歩いている一般邦人たちを追い抜いて走った。トラックに向かって、老人や幼児たちは手を合わせるように「お願いです。乗せてください・・・」と叫んでいた。

空爆の間隙を縫って船を脱出した高次船長以下の乗組員は、十日午後一時半、軍命によって羅津を退去して清津に向かった。途中は野宿を重ねながら、徒歩で十二日清津に着いた。・・・・

以下「鈴の航跡/成山堂書店刊」または「硝煙の海」の同船乗組員の手記を参照されたい。

 

©2004 Kaneo Kikuchi

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