向日丸むかひまる

(2A型貨物船 六七八二総トン)昭和二十年五月二十日〜昭和二十年十一月二十五日 通信長

玉野―若松―釜山―門司―羅津に就航。当時瀬戸内海や日本海沿岸、朝鮮東岸等は米軍投下機雷のため薄氷の海で、先行船の触雷を再三目撃した。

八月六日羅津に入港して内地向けの穀物搭載中八日深夜突如、ソ連機の爆撃に遭い、西豊船長(六十歳)が頚部負傷にひるまず、応急手当てだけで指揮を続行し、十日早朝必死で羅津脱出。南鮮向け避航〜途中から第八十二号海防艦が護衛〜ソ連雷撃機の追撃で該海防艦轟沈〜海兵九十三名救助(戦死百十七名)〜城津で海兵揚陸〜元山で船団編成〜舞鶴に八月十七日奇跡的に無事帰還。

船員の戦没者は一名(当時、小川次席通信士が病気のためソ連機空爆下の自船保全が急迫事態となったので彼を羅津満鉄病院に緊急避難入院させたが、駄目かと思った本船が生き残り、事後彼が八月十日現地で病死したことが確認され、安全策が裏目になったことは遺憾至極である)

また、海軍警戒隊員も若干名の戦傷者あった。舞鶴入港直前、新造巡洋艦が偽装して隠れていたことと、先航の辰春丸触雷現場を目撃した。

 

©2007 Kaneo Kikuchi

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