2ET型タンカー 八三五総トン)昭和十九年四月十日〜昭和十九年十月二十五日 通信長
この船は戦時急造の三十五日間で進水した戦標船で、当初パレンバン〜シンガポール間の局地原油輸送2ヵ年間派遣の指令を受け、門司〜鹿児島〜基隆〜マニラ経由シンガポール向け護衛なしの単船で処女航海に挑戦。何とかマニラに無事到着。ところがマニラの暁部隊命で、マニラ〜ミリ間に変更。またまた単船でミリに到着し、重油搭載の二隻船団に陸軍護衛船がパラワン島まで護衛したが、なぜか護衛を打ち切りUターンした、直後、昭和十九年十月二十五日パラワン島北辺のスルー海で米哨戒機に襲われ至近弾だけで沈没。船員一 海兵一 計二名戦死。
幸い同行の共同丸に救出され、近くのコロン陸軍基地に揚陸後〜マニラ〜高雄経由〜門司に翌年一月八日無事帰還。
往時を回顧すると、処女航海の途上空しく搭載重油もろとも沈没に至ったことは無念至極で、軍側の商船護衛軽視の実情を訴えたい。
なお、社史には船員五名戦死とあるが、マニラで待機中に四名が軍に徴集されたので、この四名が戦死したため加算されているのではないかと思われるが確認に至らない。
なお、本船乗員を救出してくれた共同丸は その後リンガエン湾で戦没したようである。
©2007 Kaneo Kikuchi