III 苦闘の海

小型タンカー昭豊丸しょうほうまる

戦時標準型船に乗る

近海航路の第二大源丸に乗って八ケ月後の昭和十九年四月十日、私は播磨造船所松浦工場(戦後、石川島重工と合併)で建造中の戦時標準船のE型タンカー昭豊丸(八三五トン・乗組員二十八名)の、艤装員(新しい船をつくるとき、造船所に行って各部の工程のチェックに立会い、仕上げ後にその船の乗組員になる人をいう)を命じられた。

逼迫してきた原油輸送船の補填のため、小型タンカーの増強建造が行われていた。 造船所の工員補助に受刑者も動員、船室各部は厳重に施錠するよう注意があったが、彼らはプロであるからドアの開錠など朝飯前で、厳戒態勢中での頻繁な窃盗は、稼業とはいえ見事ではあった。

この船は三十五日間の突貫工事で進水(船台から海に浮かべること)、すぐ本州近海を処女航海したところ、漏水箇所が見つかりドックに逆もどりするありさまだった。

その間に、この船はスマトラ島のパレンバン〜昭南島(シンガポール)間の油のピストン輸送に二年間派遣との内報が入った。

私は思えもかけぬ島流し的長期派遣に、大いに抵抗を感じてしまった。

今にして思えば若気のいたりであるが、あの手この手で会社に交代者の派遣を要請してみた。

結果。先輩の久保氏から「僕は新婚故、君がそのまま乗ってくれ」との連絡があった。

そこで、次善策として次席通信士の増員を要求したところ、新卒の谷津君(二十才)が五月九日乗船したので、私の打つ手がなくなってしまった。

その頃この種小型船は、通信士が一名乗船していればよいほうで、通信士ゼロの船もあった。よもや増援とは私には予想外で、会社の対応に戸惑うとともに、そこまで努力してくれたのでは、男子として潔く職務遂行を決意せざるを得なかった。

©2002 Kaneo Kikuchi

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