帰国の途へ

昭和十九年十二月三十日の深夜、米軍機台湾大空襲の情報!

急遽、南洋海運所属貨物船クライド丸(約五千トン)で、遭難船員グループを帰国させる旨突然の指令があった。

船員たちは、今までの体験上何時便船が出るか予想がつかず--それぞれ母国へのみやげ物(金平糖類など)は用意していた。

三十一日午前四時--クライド丸は油槽船パレンバン丸と船団を組み--護衛艦択捉えとろふ昭南しょうなん他二隻に守られて高雄を出港--門司に向かった。

われら多数の船員たちは--馬匹なみに藁を敷いた船倉にぶちこまれた。二人に毛布が一枚で--冷えこむと互いに引っ張りあった。

敵潜を回避するため、台湾海峡から中国大陸沿岸を九ノットの速力で北上--その夜おそく、船団は福州沖の馬礁山ばしょうざん泊地に仮泊。

翌朝抜錨--中国大陸東岸を北上--昭和二十年一月五日、山東半島から東進--朝鮮西岸を南下--一月八日午後六時過ぎ門司港に着岸--無事母国の土を踏むことができた。

暁部隊から門司の一流料亭に招待された。早速入浴、アカ、シラミだらけの戦塵を流す。いささか宿側に申し訳ないような気がした。

翌一月九日--軍属解雇式で、第二九四〇暁部隊長より「長途の辛苦に対するねぎらいと、十分休養のうえ再度の活躍を期待する」旨の訓示があり、全船員に従軍記念の木盃が配られた。

また、鉄道乗車券も支給。士官には二等パスだった。  かくして八ヵ月間、戦火の海を奇蹟的にくぐりぬけた仲間との別れを惜しみ、それぞれ職責を果たした満足感を抱きながら、古里に向け散ったのであった。

©2002 Kaneo Kikuchi

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