その後、
波止場付近の海員倶楽部には、内地にない嗜好品もあり、特別チケットで利用できた。
夜間には羅津港の周辺も、B29による機雷投下があったが、在港船や港湾施設等に対する爆撃などは全然なかった。
しかし八月八日午後十一時半頃から突如、在泊船や陸上施設に猛爆撃が加えられ、戦火に巻きこまれる事態に急展開してしまった。
陸軍防空部隊に呼応、多数の在泊輸送船乗組の海・陸の警戒隊が果敢に応戦し、火力では陸上部隊より輸送船側が優る感じだった。
暁部隊から船側には何等の情報もなく、夜間はテッキリ米軍機と思っていた。
そして夜が明け(九日)ラジオでソ連軍の不意打ち参戦が確認された。ソ連軍基地と羅津は、目と鼻の間なので、のべつまくなしに飛来し、着岸中の多数の大型輸送船は爆撃の標的になってしまった。
動きのとれない岸壁係留ではいたずらに被弾するばかりなので、西豊船長(当時六十才)は自船保全のため停泊場(暁部隊の船舶担当事務所)に離岸許可の伝令を出した。
しかし、事務所は空っぽで連絡がとれなかった。
まさか軍の無許可で脱出することもできず、この間、各船警戒隊は敵機に必死で応戦するも被害が増大するばかりだった。
本船では警戒隊員の負傷者が続出する惨状になり、臨時医務室の士官食堂に次々と運び込まれ、苦痛のうめき声が充満した。
すぐ看護兵が負傷者を応急処置後、逐次羅津の陸軍病院に移送した。
羅津港船舶被害見取り図(「難民の記」著者福地孝氏の快諾を得て改変転載)
©2002 Kaneo Kikuchi