母国は敗戦という混乱状態に陥り、命からがら入港しても会社(船舶運営会)から何らの指令もなかった。
乗船中の警戒隊員は入港するといち早く離船。ナワ陸軍少尉もいつの間にか下船したので、彼の協力に謝意を述べないでしまった。
市内は何やら騒然とし、軍服の海軍大佐がオートバイで何か物資を運んでいたり、警察官が勝手に積み荷のガソリンを持ち出すなど、無秩序な様相を呈していた。
船側でも負けずと、積み荷の大豆を豆腐と交換して空腹をしのいだ。乗組員も内心張りつめた気のゆるみからか、汽缶を故障させてしまい修繕しなければならなかった。
無線部では東舞鶴の海軍工厰の通信部門と折衝、海軍の残品真空管などの支給をうけ、予備品の補充につとめるとともに、機器の整備を行なっていた。
かくして九月三日、日本の全船舶はGHQ(連合軍総司令部)の管理下におかれ、身動がきできなくなってしまった。 稼働しない船内には、敗戦国の行く末はどうなるのか全く情報もなく、ひたすら残務整理を行うだけだった。
やっと所掌事務の処理が完了したので、船長に下船の意思を申告した。 ところが「君、このような世情のときはもう少し様子をみてから行動すべきである」と諭されてしまった。
船長の真意は分からないでなかったが、一応職務上の区切りを目途に交代の心づもりでであったので、致し方なく神戸出張の口実をつくり、会社に交代者の派遣を根まわしした。
©2002 Kaneo Kikuchi