さて、私には部下の小川通信士の生命の安全を図るため羅津で下船させた責任があった。当時の戦火の中での最善の選択のはずが結果が敗戦となり、事情が大変化してしまった。 その戦乱下、たまたま乗組員一人が羅津で本船に乗り遅れ、ソ連軍の追跡を辛うじて逃れて、
そこで、彼から当時の羅津の状況を聴取した結果、病人や戦傷者以外の軍・民は、ソ連軍の追撃を恐れて南鮮方向に一斉に退去したことが判明した。
彼の場合、散々苦労を重ね逃走中に、元山で一度ソ連軍に捕まったが、収容所の裏口から首尾よく脱出して、何とか釜山にたどりつくことが出来たとのことであった。当時、このほかの情報は得られなかった
©2002 Kaneo Kikuchi