向日丸むかひまる乗船の背景

昭和十九年十月二十五日小型タンカー昭豊丸がスルー海で撃沈され、昭和二十年一月八日門司に帰還。以後私は岩手で自宅待機を命じられていた。

戦争の最中、若者が四ヵ月も田舎でぶらぶらしているのは恰好がよくなかった。船舶運営会では戦火の洗礼をうけた船員えの親ごころから、長期待機をさせていたものと思う。

そんな折り仲人に目をつけられ、結婚話しが水面下で画策されていたようである。

大安吉日をぼくして結婚式の日取りをきめたとたん、向日丸むかひまるに乗船指令がきた。

私は、そんな話はご破算と思い乗船の準備をすすめていたところ、仲人から乗船を敬遠できないものかと懇願されてしまった。

この仲人は私の親戚すじだったので、むげに断ることもできかねたのであった。

当時の船員は乗船即、戦場に赴くことは当然であった。 私は、結婚は人生の節目であるので乗船を敬遠する事由になるかも知れないと判断し、乗船延伸かたの事情を打電した。

それから急遽挙式して一週間後、二度目の乗船指令が届き、後ろ髪を引かれる思いで神戸に出立したのであった。

一夜神戸市内の先輩宅にお世話になり、翌朝空襲警報下、船舶運営会に出頭。その後会社(大同海運)にもあいさつし、急遽玉野ドックで艤装中の向日丸むかひまるに乗船したのであった。

同船は大型船であるから、ベランの局長を配乗すべきであったろうが、戦時特例で若輩の私が当て馬になったものと思う。当時、田舎での自宅待機では、適任予備員の有無は知る由もないが、後日の噂によれば古参局長は小型船を希望していたようだ、と耳にしたことがある。

他方、小川次席通信士の向日丸むかひまる乗船経緯については今では知るすべもない。乗船二ヵ月足らずで喀血症状になったことは、彼は乗船前から胸部疾患があったのではないかと推察される。

船員には健康診断の制度があったが、昭和二十年一月二十五日施行の「船員動員令」以降は、特に本人から申告のない限り乗船させていたものと思う。

私と彼は向日丸むかひまるが初顔合わせで、短期間の出会いではあったが、おとなしいタイプの白皙の好青年の印象が、鮮明に私の脳裏に刻まれている。

©2002 Kaneo Kikuchi

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