IV 僚船の「硝煙の海」

混戦の羅津らしん港〜襟裳丸の苦闘

八月九日、十日の羅津港付近の沈没船は、次表のとおりで、その中の一隻、襟裳(えりも)丸乗組員の、苦難な陸路脱出行を追ってみる。

八月九日早朝から羅津港がソ連機の空襲にさらされたときはもう駄目かと思った。各船は片っ端から血祭りにあげられ、火災や爆発が相次ぎ、港内は見るも無残な光景を呈した。

本船は空襲のたびごとに船体がズタズタに切りさいなまれ、応急修理の手が回らず、船体は傾きながら沈没の様相を深めていった。

乗員はなお船体の保全につとめ、警戒隊は敵機に立ち向かって戦闘を続行した。

翌十日正午頃運命が尽き、停泊場の命令により総員陸上に退避した。ホットしたのも束の間「ソ連軍がまもなく当地に上陸して来るらしいとの情報に接し」速やかに撤退せよとの命をうけ、取り急ぎ食糧をもらい、グループを組んで午後一時清津に向け徒歩行軍に移った。遭難各船の全船員が行軍を開始したため路上は南下する行列であふれるほどだった。

清津せいしんまで三十里(約一二〇キロ)の道程を三日がかりで歩き、十二日夕方到着、ひとまず指定された小学校に宿泊することになった。

すると間もなく後から来た陸軍部隊に追い出されてしまった。そこに居合わせた海軍中佐に頼み込んだところ、逆に軍刀を抜いて威嚇されてしまった。

どうもわれわれは人間扱いにされず、こんなに悔しいことはなかった。

「軍人だけが戦争をしているのではない、俺たちを何と思っているのか」

この期に至ってもまだ軍人風を吹かしている彼らに、同胞とはいえ憤激を覚えたが、我慢して民家に泊めてもらった。

われわれが宿泊中、状況は刻々と急迫を告げ、翌十三日朝追われるように五里(約二十キロ)先の鏡城キョンソンに移動、昼頃到着した。

ここで船員は義勇軍を編成して戦闘に加わることになった。しかし十四日になると、とても戦闘どころではなく、「万難を排して帰国せよ」との命令が出た。

こうなると本船乗組員全員まとまった行動が不可能になり、船長も了承し、今後はグループとしての行動にすべてを賭けた。

私たちは超満員の南下する汽車の屋根や機関車の周囲にしがみつき、やっとの思いで昼過ぎ元山げんざんに着、小学校に一泊、翌十五日最寄りの部隊に招集され、終戦のラジオ放送を聞かされた。日本は負けたのである。今までの張り詰めた気持ちがガックリして何か体のなかから力が抜けてゆくような気がした。

こうなったら一刻も早く帰国すべく、元山の駅に急行。ホームに停車中の元山京城けいじょう(ソウル)回り釜山ふざん行きの列車の屋根に乗り、一路釜山に急いだ。

釜山に着くと偶然興安丸の出帆に間に合い、駆け込むように乗船。二十二日、ようやく山口県須佐に帰着することができた。

思えば、私たちは幸運の連続によって無事帰国し得たが、もし一刻でも遅れたら、とうにシベリアに送られていたかも知れぬ。なぜなら、ソ連軍の朝鮮上陸と私たちの後退が軌を一にしていたからである。

(参考文献)  駒宮真七郎著 発行所・出版共同社  「続・船舶砲兵」十四〜十六頁

(注)ソ連軍の朝鮮上陸は、十日羅津、十三日清津、二十一日元山に対して行われた。  また「鈴の航跡ー成山堂書店発行」の著者高澤豊治氏乗船の枝光丸(日本郵船・六八七二トン)も当時羅津港で被弾沈没、同船乗組員も南鮮方向に苦難の逃避を余儀なくした生々しい情景が同書に記録されている。

ソ連参戦時羅津港付近沈没船舶

年月日

区分

船名

総トン数

所属

沈没場所

昭和20年
8月9日

C

枝光丸

6,872

日本郵船

羅津港内

C

延宝丸

6,873

A

めるぼるん丸

5,423

大阪商船

C

毓通丸

1,398

満州海運

B

楽山丸

2,104

拿捕船

羅津港外

C

天正丸

3,035

菅谷汽船

8月10日

C

加利号

3,111

芝罘政記輸船

羅津港内

C

襟裳丸

6,890

日本郵船

C

阿波川丸

6,925

川崎汽船

羅津港外

A

大俊丸

2,857

太洋海運

羅津付近

A

大光丸

6,859

大阪商船

羅津港口

A

海順号

1,677

満州海運

 

12隻

54,024

   

続・船舶砲兵」駒宮真七郎著より抜粋

©2002 Kaneo Kikuchi

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