天日丸あまひまるマニラ港で爆沈

マニラには、当時一万人ぐらいの遭難船員が収容されていたようで,天日丸の乗組員とは接触の機会はなかった。最近入手した記録によれば,通信長は林銀次郎先輩であることを確認。

同氏の手記によれば、同船は昭和十九年五月新造の戦標船A型(六九〇〇総トン、乗組員七〇名)で、釜山で関東軍の大部隊(山下奉文大将)を乗せて比島レイテ作戦に参加。同年七月頃はとてもレイテまで行けず、サンフェルナンドで戦車、兵隊を全部降ろし、天日丸はマニラに回航した。

同年九月二十一日、マニラ港は米軍機約二〇〇機の大編隊に襲われ、反撃の効なく在港の大型輸送船は次々と被弾、炎上沈没した。

天日丸は三番船倉に小型爆弾一発被弾。幸い、船底が破損したが沈まなかった。その後軍命でばいかる丸とミンドロ海峡付近のコロンに避難していたところ、再度グラマンの編隊に襲われ、機銃掃射で船長と一航士が戦死。約十日後、マニラへの回航指令により、二航士と三航士が操船してマニラに入港した。

十月二十二日またまたマニラが大空襲され、ついに天日丸は被弾沈没。危機一髪で全員が救出された。

同船乗員は、リサールストリートのアベニューホテル等に分宿して、帰国命令を待っていたところ、サンフェルナンドから他の遭難船員とともに神津丸(一万トン級の陸軍専用船)で、昭和十九年十二月二十六日無事門司に帰還することが出来た。

<付記>

著者は林先輩とは、高瑞丸と高和丸で二度一緒に乗り組んだが、一度も戦時体験について話し合ったことはない。と言うことは、お互いに悲惨な体験を思い出したくなかったからと思う。仕事熱心な同先輩も既に物故なされ、切にご冥福を祈る。

©2002 Kaneo Kikuchi

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