昭豊丸の航跡から

昭和十九年同船がたどった比島周辺の海域では日米両軍の大決戦が展開されていた。だが、直接作戦に関係のない輸送船は知らぬが仏で、危険海域をマニラに向かっていた。

資料のフィリピン沖海戦図を参照してみると十月二十二日連合艦隊第一遊撃隊(戦艦「大和」「武蔵」を含む三十九隻)がボルネオ島ブルネイを出撃し、途中から二手に分かれ、パラワン島の南と北のコースでレイテ島に向け進攻している。

Dsc03642.gif昭豊丸が重油を積み込んだミリはブルネイの少し南であるが、この日本艦隊の動きなど全く感知できなかった。

ただ、そのころ谷津次席通信士が暗号電報を解読「武蔵が魚雷○本刺さったまま航行中」の情報をキャッチしていたことを、最近になって知った。私は報告うけたか否か記憶にない。ということは、そのような大海戦の情報など知るすべもなかったからであろう。

当然敵側はスルー海周辺に哨戒の網を張っていた・・・ところに二十五日朝護衛なしの裸同然の油槽船二隻が現れ、まんまと罠にはまり、昭豊丸が撃沈された訳である。

幸い僚船に救出されコロン経由マニラに上陸。当時レイテ攻防戦のため便船がなく、約一ヵ月待機後に台湾の高雄に移動。ここでも一ヵ月足止めになり、門司に帰還したのは翌年の一月七日であった。

その二日後に米軍がルソン島リンガエンに逆上陸のニュースを聞き、危機一発の帰国に胸をなでおろしたのである。

いま往時の杜撰なシーレーン保護について指摘したいことは、切迫した危険海域で何故陸軍護衛船が中途で護衛を打ち切ったのか?

また、飛行機による間接護衛実施の有無についても甚だ疑問がある。

(付記)大決戦についてはwiki:レイテ沖海戦に詳しい情報あり。

 

©2002 Kaneo Kikuchi

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