敵に制海制空権を奪われ、南方航路は閉塞状態に追い込まれた昭和二十年、大陸と本土間の物資還送の重要な輸送路となつたのが日本海航路であった。
ところが米軍は、日本の大都市空襲が一段落した昭和二十年三月二十七日から、B29により機雷の投下敷設作戦を開始していた。終戦までの約五ヵ月間に関門海峡・広島湾・名古屋・大阪・神戸の各港・瀬戸内海・本州、朝鮮半島日本海側諸港等に一万一、二二七個を投下している。
第四期(六月七日〜七月八日)は瀬戸内海航路の継続的遮断と関門海峡や阪神工業地帯の連続的な敷設が実施された。
第五期(七月八日〜八月十五日)は再度、関門海峡・日本海沿岸諸港への敷設が続行され、新たに朝鮮半島東岸諸港も対象になった。
最後の敷設は八月十四日の伏木・七尾・浜田港へ投下されている。このように日本周辺海域の航路は機雷に埋めつくされ、薄氷の海そのものであった。
当時日本海には敵の潜水艦も潜入しており、大陸〜本土間の軍、民需物資輸送も危機的状況になりつつあった。
更に追い打ちをかけるように、昭和二十年八月八日ソ連は日本に対し突如宣戦布告した。戦史では九日午前零時を期して進攻となっているが、当時羅津停泊中であった
ソ連機の羅津来襲状況については、断片的記録しか見当たらないのは非常に残念である。若し愚作が少しでも補完に役立てれば幸いに思う。
なお、
ただ遺憾に思うことは、ソ連機の不意打ち来襲で、軍側の狼狽ぶりはやむを得ないものがあったかも知れないが、多数の在港大型輸送船に対する即時避難勧告を怠り、兵員がいち早く防空壕に避難していた事実は解せないものがある。
©2002 Kaneo Kikuchi