シーレーン保護軽視がもたらしたもの

 

犠牲を強いられた輸送船

当時の海軍は、民間の船舶を艦艇で護衛するという思想がなかったようだ。いうまでもなく南方からの戦略物資を運ぶためには、当然相当数の船腹が必要だった筈である。

対する敵側はこの航路を狙って潜水艦で要所々々に網をはり、戦局後半には更に空から広範囲に獲物を虎視眈々と狙っていた。

輸送船には相手を攻撃し、沈めることができるような兵器はほとんど装備されていないから、万がいち敵に出会ったら一巻の終わりである。そして、それはその通りの現実となった。本当に日本の船は気持ち良いくらいに沈められた。

Dsc03632.gif開戦から終戦までの船腹喪失は、二五六八隻、八二〇万総トンと記録されている。(商船・艦艇沈没位置図参照、クリックで拡大表示します)これは開戦前、世界第三位だった六三〇万総トンの保有量をはるかに上回るものである。

この中に日本海運が誇ったほとんどすべての優秀客船・貨物船・タンカー等が、尊い人命とともに海底深く没し去ったのである。これらの船員犠牲者は六万余命に達し、陸、海軍の損耗率(陸軍二十パーセント、海軍十六パーセント)より高く、四十三パーセントにおよんでいる。

沈められるのなら、護衛をつけようと考えるのが普通だが、日本は違った。それならもっとたくさんの船を作ればいいじゃないかと考えたのであった。 この発想は、船舶乗組員を船の付属物と考えていたとしか思えず、人命無視の最たるものと断じざるを得ない。

 

このような惨状下の昭和十八年になってやっと、シーレーン保護に任ずる「海上護衛総司令部」が出来たが、それは既に手遅れであった。

 

©2002 Kaneo Kikuchi

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