VI 戦後の海

 

国内航路余話

戦時標準型船の型別総トン数
D型 約二二〇〇トン
E型 約 八八〇トン

乗船指令異聞 (廣海汽船D型・廣久丸こうきゅうまる

向日丸むかひまるを下船して四ヵ月後、昭和二十一年四月「マッカーサーの命により室蘭で廣久丸に乗船せよ」との電報が届いた。 敗戦後の混乱で、乗車券が簡単に入手できなかったため、苦肉の策として当時マッカーサー命なる指令電報が出されていた。

私は四月五日青森駅に着いた途端に、DDTで消毒された。青函連絡船の出港は未定とのことなので、すぐ青森の船舶運営会に渡道手段を尋ねたところ、貨物専用連絡船なら乗船できると助言があった。 これ幸いと手荷物を担いで、この船に乗船したら、何と闇屋グループで満員だった。

私は当然函館港に着くものと思い込んでいたら、貨物船桟橋は五稜郭だった。止むなくトランクを担いで線路上を函館まで歩かざるをえなかった。こんなことになるなら青森で連絡客船を待つべきだったと後悔の巻き---。

やっとの思いで函館本線経由で室蘭の船舶運営会に出頭、該船入港まで宿泊施設で待機することになった。 この宿は晩酌付きとは怪訝に思ったが、サービスかと思って下戸の口に流しこんでいた。事後酒代は自前と聞き大迷惑だった。

さて八日に入港した廣久丸に顔を出したところ、交代者の要求をしていないのに、と不審がられた。 そこで再度船舶運営会に掛け合い「私しぁ自宅にもどります」と宣言したところ、東京本部に照会してみるからと足止させられた。当然宿には晩酌を断り、待機していた 。

東京からの回答は「乗船すべし」とのことで、前任者は不承ぶしょう下船して行った。

私自身としても甚だ居心地のよくない心境で、口実をつくって一航海後、五月三十日に四日市港で下船した。ところが、くだんの前任者がにこにこしながら再乗船してきた。

戦後の混乱期のエピソードでもあろうか。

©2002 Kaneo Kikuchi

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