新造船「高和丸」の海外航路

新造第一船に乗る

今次大戦で、日本の海運界は壊滅的な打撃をうけたために、性能のよい残存船は極めてすくなかった。このため戦後の必需物資輸送の大半は、劣悪な戦標船(戦時標準型船)に頼らざるを得ず、私が終戦後乗船した六隻の貨物船もすべて戦標船であった。

わが社では、昭和二十四年やっと新造船が就航した。それは四六八九トンの高和丸であった。

私は社命により、本船に乗船のため昭和二十五年三月二十四日室蘭港に向かった。しかし該船の入港が遅延していたので、私は登別温泉の保養所に一泊、翌朝乗船した。局長は意外にも林銀次郎氏で、自室で冴えない顔をしていて、何か嫌な予感がした。

事情を尋ねると、昨夕入港時、水先人等が乗船した通船(陸と船間の小型交通船)が本船と接触して沈没、通船の乗員が一名死亡のアクシデントがあったということであった。私が若し登別に行かなければ、当然この通船に乗っていた筈であり、思わぬ運のよさに胸をなでおろした。

ところが揚げ荷が終って出港直前、船倉の後始末作業中の甲板員一名が、誤って船倉に転落して死亡するという事故が重なってしまった。出入港時のダブル死亡事故に、さすがの森船長も沈痛な面持ちで、ひと言「運命のなせる業で、致し方ない」と漏らした。

本船は戦標船とくらべると、各部ハイグレードで、日本造船界の底力を目の当たりにした。居住性も申し分もなく、特に最新の無線通信設備は、外国船にくらべても遜色がなかった。

その当時林局長は、会社の無線監督待遇で新造船の無線設備の適否判定を負託され、順次新造船の艤装業務にあたっていた。  彼は第二船の艤装のため、まもなく西山局長と交代したので、私は内心ホッとした。

横浜港停泊中のある日、鵠沼の通信士再教育機関で勉学中の同僚船員であったM氏を有志で招き、私の船室でスキヤキパーティをやって激励したことも懐かしい思い出である。

©2002 Kaneo Kikuchi

表紙 目次 前頁 73 次頁