朝鮮戦争時の米軍輸送

同年六月朝鮮戦争勃発により、阪神〜釜山間の米軍の物資や兵員の輸送に従事した。私は、戦時中は兵員の輸送体験がなく、このとき初めて米兵の出陣風景に接することができた。  彼らは概して陽気で、どこかにピクニックにでも行くような感じだった。岸壁でのワイフや街の女との別離も、あまり湿っぽいようには見えなかった。彼らはジャズを好むので、船外に流したら大好評で、長時間ご相伴する羽目となり、いささか辟易してしまった。

当時の米兵の食事はレーション(栄養食缶詰十個位のセット)で、温めるものは、大釜でコーヒーだけのようであった。  彼らはレーションの余りはポンポン海に捨てていたが、当時の日本の食料事情から、船員たちには極めて勿体ないように思われた。

一般兵士は武装のまま、通路などにごろ寝していて、寒さは平気のようだった。

どういうわけか、航海中一人の兵士が通信室のソフアから動かなかった。執務に支障があるので、止むなく私室のソフアを提供することにした。彼は如才なく、レーションの残品を持ち込み、インスタントコーヒーやココアなど試飲することができた。 釜山港で下船した彼らは、明るい顔でジープに分乗し、手を振りながら戦場へと向かった。

一方この光景とは対象的に、港湾荷役の米軍リーダーが、素敵なマリンキャップ姿で、キビキビと采配していた様子が印象的だった。

本船の乗組員の大半は、太平洋戦争で命拾いした体験者ばかりなので、こんな危険な航路は返上したいと会社に具申して、二航海で米軍輸送任務から撤退した。

©2002 Kaneo Kikuchi

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