船乗り決別

私は同年(昭和二十六年)五月八日、兵庫県広畑港で下船した。たまたま福地船長の神戸本社出張と一緒になった。彼は、カルカッタでの出港時間のロスを会社から指摘されるのではと、首をすくめていた。

当時一般不定期貨物船は、港での荷役が終了次第、運行効率化のため昼夜の別なく、即時仕向け地に向かうことが至上命令であった。おそらく福地船長の懸念は、カルカッタのフーグリ川の、水位の干満がらみのロスでないかと推察された。私は短い車中で、同船長の心の内を明かされ、船長職の重荷を再認識させられた。

ある時同船長から、真水は健康に良いから度々飲むようすすめられたことがあった。運動不足になりがちな、船上生活の健康管理の一手法だったのであろう。

 

さて、昭和十五年に恵昭丸乗船以来、戦前〜戦中〜戦後の十年間にわたる海上勤務を振り返るとき、うたた感慨無量なるものがあった。初乗船も兵庫県尼崎港、今回の下船も兵庫県とは、何か奇縁を感じざるを得ない。しかし、この時点では再就職先は未確定で、内心複雑な思いであった。

下船後暫くしてK氏からコンタクトがあり、カルカッタの靴店では残金の入金など、半ば諦めていただけに「日本人は正直である」と大喜びし、石鹸とタオルを贈られたと、わざわざ送っくれた。当然の行為が、ささやかな親善外交の形となったことは、船乗り最後の忘れ得ぬ、懐かしい思い出となった。

©2002 Kaneo Kikuchi

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