VII 終章

 

思い出

昭和十九年十月二十五日私の乗船、小型タンカー昭豊丸はスルー海で米機に爆沈され、乗組員は他船を乗り継ぎ、辛うじて翌二十年一月八日無事門司に帰還したことは昭豊丸の章で記したとおりである。ここでは一月九日、門司からの帰郷の途次、神戸途中下車ときの出会いなどを回顧してみることとする。

会社に出向いたら、偶然久木原大先輩に会った。早速元町に出てお互いの健在を確かめ旧交を温めることができた。

その後彼の案内で灘区篠原町の会社の無線監督(簗瀬氏)宅を訪問した。私は簗瀬氏とは初対面であったが、青森県出身の朴訥な人柄に、同じ東北人として親近感を抱いた。

お住まいは知人の会社役員の邸宅とかで、二階建てで新しく、当時は珍しい別玄関のある二所帯住宅であった。真っ黒に日焼けした新参者に対し、奥様が色々歓待してくださり、やっと母国に戻った実感が湧いてきた。

たまたまOLの奥様の妹さんも顔をだしたところ、久木原先輩が「このお嬢さんは某君と婚約済なんだよ。君が出会うのは遅かったね」と、ひやかされた。私は、戦火をくぐりぬけ責任を果たしたことを内心誇りに思い、生意気にも両先輩と対等に雑談したように思う。

適度に酔いがまわり、私は遂に簗瀬氏宅に泊めていただくことになった。布団にもぐったら、足元がアンカで温められており、奥様の気配りにジーンとした。

翌日郷里に向かったはずだが、道筋の情景など全然思い出せないのは、長道中の夜行列車で居眠りしていたからであらう。 帰郷しても若者は兵役に服し、誰ひとり話相手もなく、無為に親戚回りをするばかりだった。

台湾みやげの金平糖を、ある親戚の幼児にあげたら「お人形は食べない」と断られ、改めて国内の甘味料不足の実態を認識したことである。

その後神戸に出向くたび簗瀬氏宅に主食を持ってお邪魔するようになり、あるときは珍しいゼンザイなども口にしたこともある。往時をつらつら思うと、あの食料難の時代、世間知らずの若輩の身で散々お世話になったことを恥じ入るばかりである。

そんなことから罪滅ぼしの意で、後年仙台名物を贈ったところ、簗瀬氏から「亡妻の好物を霊前に供えた」と添え書きした礼状が届き、遅きに失した謝意を後悔させられた。

それから間もなく同氏も幽明境を異にした。切に、お二人のご冥福を祈るばかりである。

©2002 Kaneo Kikuchi

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