特に羅津の陸軍病院に入院させた次席通信士(小川肇氏)の生死の消息調査は、元会社が他社と合併したため、当時の記録なしの回答に接し、暗礁に乗り上げてしまった。戦時中、船員の配乗を一元的に管理した船舶運営会の資料にも、船員関係の記録は無かった。
しかるところ、宮城県立図書館の書架にあった「(財)日本殉職船員顕彰会」企画の画集「戦時徴用船の最後」が目にとまり、早速この顕彰会に照会してみた所、戦没船員奉安者名簿に「昭和二十年八月十日羅津で戦没」と記録されている旨、平成十一年二月五日、回答を得ることができた。やっと、彼にかかわる戦後処理に到達できたと思う反面、往時の最善の安全策が裏目となった責任を改めて痛感せざるを得なかった。
毎年五月、横須賀市観音崎公園の「戦没船員の碑」で追悼式が催されていることを知り、同年五月十五日の第二十九回戦没・殉職船員追悼式に馳せ参じ、半世紀ぶりに戦没船友の御霊にご冥福祈願を果たすことができた。
他方、故小川氏ご遺族にお詫びしたい思いで、当顕彰会機関紙「潮騒」に小文を投稿、ご遺族の情報収集を試みたが何らの反応も得られず、苔むした歳月の重みを噛みしめるばかりである。合掌
©2002 Kaneo Kikuchi