小川通信士入院先病院看護師と対面

かねてインターネットで、当時羅津の中学生であった福地孝氏から、羅津埠頭近傍の病院は羅津満鉄病院であることと、同病院の元看護師Kさんが仙台近郊に住まいしているとの情報を得ていた。昨年(平成十八年)九月仙台メディアテークで開催された「戦時徴用船遭難の記録画展」会場で初対面し、往時の同病院入院患者の動向などをお尋ねすることができたので、その要点を追記することとする。

○ 八月十日病院内で戦死するような事態の有無

ソ連機は埠頭に接岸中の商船隊を集中爆撃して病院には来襲がなく、したがって戦死するような場面はなかった。

○ 入院患者への対応

当時、相次いで戦傷した兵士・船員が病院に搬入され、対応に忙殺のため地元入院患者は退院させていた。したがって、残留一般患者診察まで手がまわらなかった。

○ 小川通信士のこと

一度船内で喀血した患者のようであるが、先の状況から推察すると再喀血などで亡くなられたのではないか。

○ 病院退去命令

十一日暁部隊から看護師にも避難勧告があったが、患者を介護するのが職務であるからと拒否した。しかし、軍命をたてに、追い立てられるように最小限の見回り品とおにぎり二個だけ携行して、夕刻病院を出た。満州に向け、徒歩で北に向かい、筆舌に尽くしがたい逃避行を余儀なくした。

 

○ 一応の懸案究明到達のように思う

著者として、当時の空爆下での、緊急避難入院が裏目になったことの真相究明に、到達できたように思う。それは、戦死ではなく戦病死と推察できることである。仮令、彼を船に連れ戻しても、船医不在の船内では再喀血等への処置をできなかったことと思うからでもある。

Kさんに当時の年齢を伺ったら十八歳とのこと。戦渦の中、かの地で懸命に傷病者の介護に奉仕された健気さに、胸に迫るものがあった。

なお、残留入院患者の処遇について懸念されるところであるが、この方面の公刊戦史叢書が見当たらないので探求の要があると思う。

©2002 Kaneo Kikuchi

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