-- 浦本ボースン会見記
高栄丸南米就航の回想は渡辺船長が記録されているが、私は当時のクルーのカタフリ(雑談)を発掘したいと思っていたところ、過日、当ホームページを見た大同ヤングOBである渡辺昌彦氏から感想が舞い込み。早速彼に当時のクルーからの聞き取りをお願いしたところ、同社の長老船員である元甲板長の浦本さんからユニークな裏話を取材してくださったので公開させていただきます。
なお、渡辺氏は昭和三十年に大同に入社し、高東、高武、高征、高知、宮島の各船に乗り、昭和37年ジャパンラインになる前に大同海運を退職された方です。
(注記)「ボースン」は「甲板長(こうはんちょう)」の英語名です。船乗りの間では甲板長よりも、何々ボースンと畏敬を持って呼ぶ方が一般的でした。
平成十五年五月七日
元 大同海運甲板員 渡邉昌彦
氏は現在神戸市郊外の閑静な住宅街で静かに余生を過ごしておいででした。 私共の訪問を大変喜ばれ三時間にわたり歓談させて頂きました。 氏は明治四十三年生まれの九十三歳になられ、ご高齢にも拘らず頗るお元気と見受けました。大兄よりのご依頼ありました「硝煙の海」続編を総てコピーし、大同海運船舶写真集もCDフロッピーに入れ共にお届け致しました。 以下歓談の内容(高栄丸、
氏は冒頭「大同海運はとても良い会社であった」「素晴らしい会社であった」と絶賛されました。後にワッチマンとして色々な船会社の船を見てきた氏の発言は納得のできるものでありました。
「我々は大同海運を一日でも早く、少しでも大きな会社にするべく一生懸命頑張った」
「少しでも会社の経費負担を軽減すべく船の保守、整備、を怠らずいつも新造船のように手入れをしてきた。また積荷を安全に確実な状態で荷主に届けるべく腐心してきた。その為乗り組にも随分無理や厳しく接したが、それもみな大義の故と許して欲しい」
と懐古をこめ詫びられました。新設会社大同の海員として当然考えることでありましょう。今、当時同乗した甲板部諸兄の心中を慮ればどれも これも懐かしいことばかりです。氏のご教導あらばこそ質の良い乗り組みとしての技術を得、良き船内生活も過ごせた事は決して恨むべき筋合いのものではないでしょう。
「当時日本の船腹保有量は一二〇万トンであったと思う」その中でロイド船級協 会の検定を受けていた船は、郵船の「氷川丸」三井の「有馬山丸」そして我が大同の「高栄丸」の僅か3隻のみというなんとも誇らしいことであった。
又昭和二十五年神戸出港の折、川崎造船所で高和丸、高昌丸、高明丸の新造船を建造中であった。なんとも意気盛んな大同海運であった。(ただし高和丸については大兄の回想録と若干時間的誤差があるようですので確認の要があります。)
高栄丸は八幡でビレット(鉄塊の半製品)を、神戸で鉄線コイルを積み込み、船足も深く六月二十四日アルゼンチン、ブエノスアイレスへの長途につきます。
実はこの積荷は復路アルゼンチンより積み込む日本向けの食料品(主に小麦)の代価であったということです。氏が会社幹部より聞き及んだ機密事項だそうです。 戦後の経済復興半ばの日本経済界は輸入品の支払い代価(ドル)が無く、バーター契約での商取引が行われたようです。
高栄丸は一路南下いたします。西回りです。
マラッカ海峡(或はズンダ海峡)からインド洋を経て南アフリカのケープタウンまで直行いたします。ケープタウ ンでは燃料の補給をします。
休む間もなく大西洋を横断、ラ・プラタ河口のブエノスアイレスに入港しました。昭和二十五年八月十二日、日本から実に四十九日 の長い航海でした。
アルゼンチンには多数の在留邦人がおり、その方々の盛大な歓迎を受けての入港は、実に晴れやかなものでした。在留邦人の方々は母国恋しやの一念でしょうか、家から二時間も駆けて訪船する方もありました。
船長の回想録にもありましたが「日の丸」を掲揚することもできずの入港は、実に内心忸怩としたものがあったと考えられます。日の丸の無き日本船を歓迎した在留邦人の心中やいかばかりか、察するに余りあるものでした。
中にはぜひ「日の丸」を見せて欲しいという在留邦人の方々もおりました。氏は言います「俺の部屋に来い「日の丸」を見せてあげよう」
氏の部屋には手作りの日の丸が壁に掲げられていました。そして日の丸の脇には「国家再建。労使協調。国旗を愛せ。」と墨痕も鮮 やかに添書されていたそうです。
又その際、帰り際に何もあげるものが無いけどと、一升瓶に日本の水を詰め、訪船の在留邦人に呑んでもらったそうです。在留邦人は皆涙してこれが母国の水なんだ、「美味い、美味い」と喜んでくれたそうです。
ブエノスアイレスでは在留邦人が多くいたせいもあり、とても大事にされモテタそうです。ラテン特有の明るさと開放感は随分と乗り組みの心を和ましてくれました。
荷役は朝九時頃から、昼食をはさみ、十六時頃までで一日の作業は終了しました。 まさにアスタマニヤーナに耽溺したようでした。既に週休二日制でした。
夜になると飲み屋も娼家もたくさん在りましたが、在留邦人の多くの家庭からの招待が毎晩のようにあったそうです。 体が二つ欲しい状況だそうでした。
色白く目はパッチリの南米女性には皆すっかり骨を抜かれ、随喜の涙を流し感激のようでした。実に楽しく過ごしたブエノスアイレスでの停泊でした。
一月ほどの停泊が終わり、前述した問題の食料を(主に小麦)満載に積み込み、一路神戸へ向け出帆いたします。
復路も往路と同じ航路を走ります。大西洋から喜望峰を回航し一気にシンガポールまでです。シンガポールでは燃料などを補給します。
ブエノスアイレスで小麦積み込みの時10数羽の鳩が船に居つき実にシンガポールまで付いてきました。シンガポールの陸地が見える頃ふと消えてしまったそうです。
あの鳩は何処へいってしまったか?皆残念がっていたそうです。 船が東シナ海に入りました頃、再びあの鳩が飛来し船共々日本まで付いてきたのには驚嘆させられました。移民ならぬ移鳩でした。
又キャプテンが、南米で犬を貰い船中の慰みに飼育していました。 シンガポールでこの犬がいなくなりました。間もなく出帆です。 しょうがないと諦めていたところヒョッコリ戻ってきました。すんでのところで乗り遅れ犬になるところです。生き物の感覚の鋭さに感心したそうです。
往きも帰りも安穏な航海でした。昭和二十五年十一月二十四日神戸港に入港いたしました。 5ヶ月間の長い航海でした。
帰港して数日後、ブエノスアイレスで知り合ったアフリカの船員と神戸で偶然遭遇いたしました。ふと彼の足元を見ると靴ならぬ地下足袋を履いていました。その地下足袋はブエノスアイレスで氏が愛用していたものでした。彼にせがまれ革靴と交換したんです。地下足袋は甲板やリギン(マストを支える鋼索)などにしっかりフィットし大変具合が良いそうです。実に奇遇な再会でした。
氏は五十年以上を経た当時の「高栄丸」の壮挙を嬉しそうに、昨日のように、語って下さったのがとても印象的でした。
浦本ボースンの愛称は「校長先生」でした。皆が校長さん!校長さんと親しんでおられました。
軍徴用船の頃ボースンの仕事振りに感心した司令官が「兵隊の位で言うと**だな」といったのを傍にいた乗り組みが「先生で言うなら校長先生と言うことですね」との発言が基になっています。(本人談)
何しろ大同海運での名物ボースンでした。否、船乗り社会全体を探しても稀有な存在であろうかと思われます。仕事振りや乗組員の教育、部下への思いやり等など氏の右に出る方は居なかったといっても過言ではありません。
身長一六五センチほどで、その体つきは肩の肉が盛り上がり、まさに巌を感じさせられました。
歩く時には肩を揺すり早足でデッキを闊歩します。
顔は丸く頭髪は薄く鼻下に髭を蓄え、怒った時には仁王様ソックリ、それは恐ろしいボースンです。
しかしプライベートでは愉快で、面白く邪気の無い楽しい大先輩でした。私も当時がとても懐かしくPCのキーを叩きながら思い出しております。 大兄のお蔭で昔の世界に一時でも浸れた事を感謝し”高栄丸”関連の話を終わらせていただきます。
高栄丸南米就航の記事で往路マラッカ海峡もしくはズンダ海峡とありますが、氏に「マラッカですか?」と聞きましたところ「うん」とのことでした。しかしズンダを利用する方が何かと合理的な気がしますし、事実その後同航路では多くの船はシンガポールに寄航しない限りズンダを利用しています。帰路には燃料補給をシンガポールでしていますので、マラッカかと思います。往路の件私の確認不足で申し訳ありません。
著者付記
私は大同時代、家族を田舎(岩手)に置いた関係で、ほとんど会社には顔を出したことがなく、誰が船員課長かも認識ありませでした。ただ、電報で何丸乗下船指令のみで動きました。昭和二十六年退社時も、会社には全然根回しなしで、就職先が決まったとき、いきなり退職届を送ったところ、会ったこともない配乗担当者から「何か会社に不満があって辞めるなら相談に応ずる」旨の手紙が届きました。自分の根回し不足を謝し、一身上と弁明して 円満退社しました。恥ずかしながら、その時はじめて温情のある会社であることを悟らされました。
©2003 Kaneo Kikuchi