商船(向日丸むかひまる)護衛・爆沈記

第八十二号海防艦森艦長の手記から

「葉隠に生きる」昭和十九年十二月〜二十年八月
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 ○爆沈

(一九四五年=昭和二十年八月十日)

・・・・・羅津らしん脱出最後の船を望見した。商船と本艦の距離約三マイルに接近した時、敵機二十四機、商船を襲った。全部雷撃機である。従って水面すれすれの低空飛行である。

吾々は対空戦闘の用意をなし、射程距離に近ずくのを満を持して進んだ。敵機は商船(向日丸むかひまる七千トンとわかった)に対して果敢な魚雷攻撃をしている。

向日丸むかひまるは戦時急造型で速力も最高八ノットと云う低速で、武装とて陸軍野砲一門あるのみでこれに応戦しているのだが、敵弾は仲々当たらない。魚雷が海岸に衝突しているのが数回望見された。

敵機は去った。私は之を見て司令部に宛てて、「敵の雷撃極めて拙劣なり」と打電した。単独勇戦奮闘した向日丸 むかひまる は間もなく本艦と接近したので、「貴船を護衛し元山に向かう」との信号を交わし護衛体制に入った。と見るうちに再び敵雷撃機十八機が襲ってきた。三機編隊の六飛行機団である。私は最初の三機に向かって射撃を開始した。

敵は双発の極めて鈍重な速力の遅い飛行機で、しかも超低空である。吾二十五ミリ銃が一斉に火を吹き、火の玉が吸え寄せられるように敵機に向かって消えて行く、と同時に敵機はパット火を噴いた。私の横に居た信号兵が「艦長、あれが落ちました」「これも落ちました」と報告する。

三機は本艦の左舷五十メートル位の海中に火を噴きながら突入していった。敵飛行士の姿がはっきり見えていた。

左舷の飛行機を全部撃墜して次の目標右舷の編隊に向かうべく、面舵一パイ(注1)機関全速力で急旋回、私はこの戦果にすっかり酔って、「幾らでも来やがれ」と叫んでいた。その時航海長か砲術長かが「雷跡」と叫んだ。

見れば左舷四十五度方向に本艦と大体平行に距離二千メートル『この態形では本艦への命中なし』と判断。それよりも右舷の飛行機を早く射撃せねばと気負っていた。

 

其のうちに砲術長が「当たりますよ」「当たりますよ」と云う。私は「馬鹿やろう。そんなものが当たってたまるか。どうだかわかったろうが」と後部をふり返った途端気を失ってしまった。

 

「艦長、艦長」と呼ぶ声で気がついた。歴航海長と富田航海士が、横に倒れた艦橋の窓の外から必死に呼んでいる。

『やられたな』としばらくもぞもぞしていたが何かを掴んで立ち上がった。どうやら体の方は大した事がなさそうである。こわれた艦橋の中からやっとの事で外に出た。敵機はもう居ない。

後部をふり返ってみたら艦橋より後は全部見えない。前部は赤い腹を出して横に浮いている。生き残った部下は赤腹にぼんやり立っている。

私は艦橋の周囲にめぐらせてある防弾の竹を取って泳げと命令した。然し彼らは呆然としている。私自身で竹を取ろうと力一パイ引っ張ってみたが、ワイヤーで締めつけてあるので微動だにしない。あきらめざるを得ない。

艦は次第に沈下する。木材が浮いていたがほんの二、三名が掴める程しかない。万事休す。「飛び込め」の号令をかけた。

ぐずぐずしていると沈没の渦流に海底に吸い込まれる懸念がある。大部分の部下が飛び込んだ。私も靴と上着をぬぎ捨てた。この時私の横に富田航海士と彼の直属の部下の一人が停んだままでいる。彼は応召兵で全然泳げないと云うのだ。どうするにも思案はなかった。いよいよ艦の船首の方が高く上がって後ろから沈下してきた。

私と富田航海士は水が足元まで来るまで艦にとどまったが方策なく、断腸の思いで水に入った。泳げない水兵は船首の錨を掴んでいたが、やがて艦と運命を共に沈んでいった。この時この水兵が、「どうしましょう。どうしましょう」と云っている言葉を聞いた様な気がしたが、今でははっきり声となって私の耳に焼きついている。今思い出しても胸が痛む光景であった。

舞水端里

この本艦爆沈は十日午後五時半(私の時計にて)夏時間で日は長かった。然も幸運にも風もなく波もなく穏やかな海であった。

回りを見ると相当数の頭が見える。清津付近の山が遠くに見える。海岸迄約八千メートルはありそうである。

水練の達者な若い下士官が「海岸まで泳ぐからついて来い」と怒鳴っている。数人が彼に続いたようだ。けれど私などとてもあそこ迄泳ぐ力はないので、救助船が来る迄何とか力を持たせようと思った。救助船が来た場合出来るだけ固まっていた方が助かりやすいので、「艦長はここだ。集まれ」と大声を張りあげた。すぐ近くに居た機雷長も、「集まれ」と声をかけたが誰も集まって来ない。

 

そうして泳いでいるうちに、暖流と寒流が十メートルおき位に交錯している事がわかった。寒流に入れば冷たく手足の自由がきかなくなる。暖流帯に入ると仰向けになって歌でも歌える位楽になる。私は暖流を逃すまいと余り泳がない事にした。

機雷長が大きな魚を右手に持って、「艦長、魚を取りました」とにこにこしている。私も「助かったら食べるから逃がすなよ」と云い返した。

 

沈没してから一時間半も過ぎた頃、吾々が護衛していた向日丸むかひまるがこちらにやって来るのが見えた。『やれやれ助かった』とほっととしたが、向日丸むかひまるが全速で転舵しているので上空を見上げると、又もや敵機十八機が襲いかかっている。

向日丸むかひまるは魚雷回避の運動をやりながらも、乗組員は甲板に積んであったハッチボード(注2)を海中に投げてくれる。

敵機は魚雷を投下して引揚げた。向日丸むかひまるは何の被害もなく浮いていた。自らは敵機十八機と交戦しながらも、吾々遭難者のためにあれ丈の板を投げ込んでくれた。「これぞ海員魂」と感激した。

信号兵がこのハッチボードを拾って私にも持って来てくれた。この板に腹ばい、もう助かったも同然と、のんきに機雷長と雑談しながら浮いていた。

 

午後七時十分頃向日丸むかひまるが再び接近して来た。『今度こそ助かった』と思ったが、船は吾々より五十メートル位離れたところを、惰力でどんどん遠ざかって行く。間もなく日没となる。暗くなれば助からぬと緊張した。

向日丸むかひまるは機関を後進にかけ行脚が止まったらしい。然し五百メートルは充分にある。空は少しずつ暗くなって来た。『ここで助からなかったら俺は死ぬな』と思った。

ハッチボードを持ちながら向日丸むかひまるに向かって力泳又力泳、全身の力をふりしぼって泳いだ。ボードを捨てればもっと楽に泳げただろうが、板を捨てたとたん痙攣でも起こしたらそれこそ最後だと思って、船の舷梯に辿り着く迄板を捨てなかった。

 

やっと舷梯にたどり着き上ろうとするけれどもどうしても上がれない。本船の乗組員に引っ張り上げてもらってやっとタラップに立った。

どうやら上甲板まで上ったがもう一歩も足が動かない。甲板のあちこちに助かった部下が居るので、そちらに行こうと思っても全然歩けない。私はデッキに尻を下ろした。空も次第に暮れなずみ辺りが見えなくなって来た。

私が助かったことを知って兵隊が迎えに来た。彼らに両肩をかかえられながら、皆が集まって暖をとっている後部の缶室の上に行った。

 

間もなく向日丸むかひまるの船長から迎えが来たので私は船橋に行き、船長に厚く礼を述べた。船長は非常に御老体で頭に巻いた包帯には血がにじんでいた。

老船長は「艦長、貴方は向日丸むかひまるの犠牲になってやられたので、艦長の納得のゆく迄、生存者の救助をします。見ていて下さい」と暗くなった中をテンマ船を漕ぎながら拾い集めている。視界内には一人の遭難者も見当たらなくなった。吾々一同感謝の意を表した。「ソ連飛行士をぶった切ってやるよ」などと勇ましい話も出る程に落ちついたが、何様褌一つのこの恰好に皆顔を見合せて大笑いした。

 

午後八時半先任将校が生存者数を調査。乗組員二百十五名中生存者九十八名。百十七名の戦死者であった。私は向日丸むかひまる船長と今後のことについて話し合った。

向日丸むかひまるは「本船は船速も遅いし、明日になれば又もや敵機に襲われるだろう。昼間の航海はとても無理だから一応城津に入港し、夜間航海で元山に行きたい」 私は「負傷者が沢山居るので一刻も早く近くの港に上陸して手当てを受け度い」と云う事で意見が一致し、十一日未明城津に入港した。

 

先任将校を上陸せしめ陸軍輸送部と交渉をなし、怪我のない者が負傷者を補助しながら、褌一つの裸の行列が、まだ明けやらぬ城津の町を誰にも見られる事なく行進したのである。

 

 ○合同葬

城津の町では吾々生存将兵の宿舎に「魚津」と云う大きな料理屋をあてられた。これが何と前日出港前に大変御馳走になって「又来るよ」と世辞を云って出た料亭であった。

それがほんとに又来たのである。褌一つのこんなかっこうで。けれども前回は海軍士官の服装、今日は裸の吾々を、おかみも沢山のお女中も誰も気がつかなかった。
 吾々の遭難の事は直ちに城津町長の知るところとなり、ねぎらいの挨拶にわざわざ料亭まで来られ、色々と世話をしてもらった。

町長の好意でまず衣服の調達をしてもらったが、それがドンゴロス(注3)の労働着にワラ草履、それに麦ワラ帽子といういでたちで、隊伍を整えての行動は何とも珍風景ではあった。

戦死者百十七名(機関部は機関長以下全員戦死)の合同葬が、これも町長の御高配により当料亭で仏式により行われた。

九ヵ月間寝食を共にした戦友の霊安らかに眠り賜えと祈り、屍を越えて死を無駄にしないと誓った。

 

○司令への報告

葬儀を終えほっとした一日であったが、私は休む暇もなく主計科下士官一名を同道し、元山にある吾第一海防隊司令に、戦闘報告のため城津を出発することにした。残りの部下は歴先任将校指揮の下に、翌十四日城津発京城に向かうべく指示し、町長はじめ、変わり果てた吾々に気ずき、いたく同情をよせてくれた料亭の皆に見送られて、城津駅へ向かった。

司令海防艦を訪問、司令に面会した。

司令は
 「ごくろうであった」までは良かったのであるが、

「君の艦がやられたことは羅南師団司令部からの電報で知っていたよ。助けに行こうと思ったが行けば俺もやられるから行かなかった」これが「海軍兵学校出の海軍大佐の云う事か」と足げにもしたい激怒をやっと押えて歴先任将校の卒いる本隊と合流すべく、元山駅へと急いだ。そして十四日京城へ到着した。・・・・・・・ 以下略。

(参考資料から)
 第82号海防艦(丁型)要目
  基準排水量 七四〇トン
  主   機 タービン一基
  出   力 二五〇〇馬力
  計画速力  一七,五ノット
  航 続 力 一四ノットで四五〇〇浬
  兵   装 一二,七センチ四五口径
            単装高角砲 二基
        25ミリ連装機銃 二基
        爆雷 一二〇個
        (投射機一二基、投下条一基)
  乗   員 定員一四一名に対し、当時
        二一五名が狭い艦内に乗っていた。

著者補足

(注1)面舵(おもかじ)
 船首が右舷の方へ回る指令用語

(注2)ハッチボード
 貨物船には貨物を搭載する船艙があり、貨物の揚搭口をハッチ(艙口)と言う。 このハッチは航海中はハッチボード(木製の艙口蓋)と艙口覆いによって厳重に水密される。多分向日丸むかひまるは予備のハッチボードを筏代わりに海面に投下したものと思う。

(注3)ドンゴロス
 麻などで織つた布製の粗末な服のこと。(いわゆる南京袋風の粗服)  当時は軍部以外は衣類が払底しており、向日丸むかひまるにも余分の衣類や毛布すら無かった。昨年同海防艦戦友の一人から、救出してくれたお礼の電話の際、向日丸むかひまるでドンゴロスを配ってくれてありがたかったと付言あるも、勘違いと思う。私がマニラに収容されたとき、靴下の支給がなく、靴擦れの化膿に悩まされた。

(手記抜粋について)
 平成十三年から十四年にかけ同船生存者他をあたりご遺族を探すも見つけられず。ご遺族の了解なしに手記抜粋は心苦しいものの、大変貴重な記録なので、ここに掲載させていただいた。ご遺族に心当たりの方がいらっしゃれば、ご一報願いたい。

©2003 Kaneo Kikuchi

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