平成15年5月
元陸軍少尉 那和正夫
私は一九四五年八月に
九日夜私は警戒隊長○○海軍少尉と
十日午前六時過ぎ、船長以下全員揃ったのを確認して出帆することになったが、周囲は被弾して動けなくなった船が邪魔で離岸に手間取り、午前七時半にやっと港の出口にさしかかった時、三機編隊のソ連機が急降下して爆弾を投下するや、本船の対空砲火を恐れ港外に飛び去った。敵機の爆弾投下地点は本船の四十〜五十メートル前方に集中したため直撃を免れた。何故か不思議だが、思うに
十日十二時半頃、朝食抜きで腹ぺこ。もう敵機も来ないと見て昼食にする。平素高粱入りのご飯だが昼食には白米にする。午後一時頃になって船底がザザザザと砂地に乗り上げたような音がして座礁してしまった。碇を降ろしてこれ以上岸の方へ流されない様にする。海防艦一隻沖を南下しているのを見て救難信号を送るも、そのまま通過してやがて地平線の彼方に消える。甲板に家財道具らしき物を積んでいるのが見えた。
次に来た第八十二号海防艦が近寄り、ロープで
同四時頃ソ連雷撃機九機の空襲があり,私はこの生々しい戦闘を甲板で終始観察していたので今でもはっきり脳裏に焼きついている。
敵の指揮官機が海上に煙幕を張り、横一列並びの雷撃機群が一瞬見えなくなったと思うと、その煙幕の中から現れた雷撃機群は既に魚雷を発射した後で、
・・・・・間もなくドカンという大爆発音がして目の前の海防艦が轟沈した。その様は、七十〜八十メートルもあるかと思われる水柱が上がって、一瞬艦が見えなくなり、水柱が滝のように落下した何秒か後には、艦首を上にして垂直に立った艦の姿が現れ、がくんがくんと四〜五秒ほどで海に没してしまった。艦影が見えなくなると同時に、脳裏に「間もなく
ところが海岸の方で魚雷の爆発するのが3ケ所位見え、
何故だろうと考えたとき、
「轟沈」という言葉は知っていたが、現実に目のあたり見た強烈な痛恨情景は永遠に忘れることは出来ない。
この時、
十八時頃、海上で浮いている兵員を救助する。彼らは海上に浮いた重油にまみれて、頭から足の先まで真っ黒だった。泳ぎの達者な人は海岸に行った由。
十九時頃、救助作業を終え、再び南下する。
翌日早朝(時刻不明)薄暗い時刻に城津(小さな漁港の様な港でした)の沖に船を止め、救助した兵員をカッターボートで何回かに分けて上陸させる。
ちなみに、以上の記憶と船の速度(最高八ノット)、それに航行時間から、第八十二海防艦の沈没地点は、魚大津沖と考えられます。なお海防艦艦長の手記にソ連雷撃機の空襲が三回あったとありますが、私が見たのはこの一回で、後の二回は海防艦だけが他の地点で受けたのではないでしょうか。
混乱と、あー終わったなと思う中に
同級生の中には未だに連絡がとれず、消息不明の者が沢山居ります。それに比べて今まで生きてこられた幸運を感謝し、元気で長生きできればと考えて居ります。
©2003 Kaneo Kikuchi