羅津港脱出記

平成15年5月
元陸軍少尉 那和正夫

向日丸むかひまる乗船ー羅津港空襲ー脱出

私は一九四五年八月に向日丸むかひまるに釜山港で乗船。向日丸むかひまるは一度関門地区空襲時、門司港に帰港後羅津に向い、同年八月六日同港に入港。ソ連機来襲第一波は九日午前六時頃と思う。当時の在港輸送船は二十隻ぐらい、帝北丸以外の船名は不詳。該船には同期の若松少尉が乗っていたので七日訪船して会った。この船は元フランス国籍で時速二十二〜二十三ノットと聞く。同船は九日夜羅津から舞鶴へ直行中、日本海の中部で敵潜水艦に撃沈され、若松少尉は幸い通りかかった漁船に救助されている。

九日夜私は警戒隊長○○海軍少尉と向日丸むかひまるの甲板で会話中ソ連爆撃機来襲を目撃。サーチライトの中の豆粒のような爆弾がパラパラと落下。進行方向と仰角から向日丸むかひまるに命中すると感じ、覚悟を決めて甲板に伏せた途端、ドカンという大音とともに火の粉がバラバラと落ち、船から約三十メートルの岸壁倉庫に命中。倉庫内に積んである大豆が火の粉になって降りそいで来たが、すぐ消火して大事にならなかった。

十日午前六時過ぎ、船長以下全員揃ったのを確認して出帆することになったが、周囲は被弾して動けなくなった船が邪魔で離岸に手間取り、午前七時半にやっと港の出口にさしかかった時、三機編隊のソ連機が急降下して爆弾を投下するや、本船の対空砲火を恐れ港外に飛び去った。敵機の爆弾投下地点は本船の四十〜五十メートル前方に集中したため直撃を免れた。何故か不思議だが、思うに向日丸むかひまるは出港したばかりで速力が三ノット程度のため敵機が船の速力を誤算したものと考えられる。

向日丸むかひまる座礁ー海防艦救援

十日十二時半頃、朝食抜きで腹ぺこ。もう敵機も来ないと見て昼食にする。平素高粱入りのご飯だが昼食には白米にする。午後一時頃になって船底がザザザザと砂地に乗り上げたような音がして座礁してしまった。碇を降ろしてこれ以上岸の方へ流されない様にする。海防艦一隻沖を南下しているのを見て救難信号を送るも、そのまま通過してやがて地平線の彼方に消える。甲板に家財道具らしき物を積んでいるのが見えた。

次に来た第八十二号海防艦が近寄り、ロープで 向日丸むかひまるを引っ張ったが動かず満潮を待つ。午後三時頃船が少しづつ動き出し、やっと沖の方へ海防艦が曳航してくれ、この護衛で南方への沿岸航行を再開した。

○ ソ連雷撃機と交戦ー護衛海防艦轟沈

同四時頃ソ連雷撃機九機の空襲があり,私はこの生々しい戦闘を甲板で終始観察していたので今でもはっきり脳裏に焼きついている。

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敵の指揮官機が海上に煙幕を張り、横一列並びの雷撃機群が一瞬見えなくなったと思うと、その煙幕の中から現れた雷撃機群は既に魚雷を発射した後で、向日丸むかひまるのマストをかすめるように陸地の方向へ飛び去った。

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・・・・・間もなくドカンという大爆発音がして目の前の海防艦が轟沈した。その様は、七十〜八十メートルもあるかと思われる水柱が上がって、一瞬艦が見えなくなり、水柱が滝のように落下した何秒か後には、艦首を上にして垂直に立った艦の姿が現れ、がくんがくんと四〜五秒ほどで海に没してしまった。艦影が見えなくなると同時に、脳裏に「間もなく向日丸むかひまるも同じ運命を辿る」との思いがはしった。

ところが海岸の方で魚雷の爆発するのが3ケ所位見え、向日丸むかひまるの船底をくぐり抜けたり、当たり外れた魚雷ではないかと思った。

何故だろうと考えたとき、向日丸むかひまるは八月六日羅津に入港、揚げ荷が終わった所でソ連の参戦に会い、積み荷を中断して脱出したため喫水部位が浅かったのが幸いしたのではないかと思う。普通ならあれだけ多くの魚雷を全部かわせるわけがない筈だ。

「轟沈」という言葉は知っていたが、現実に目のあたり見た強烈な痛恨情景は永遠に忘れることは出来ない。

この時、向日丸むかひまるには損害が無かったものの、弾丸は撃ち尽くして一発も無くなる。ソ連機は上空にしばらく舞っていたが、撃墜された一機を見捨て北方に消える。

向日丸むかひまるはそのまま南下を続けるも、海防艦兵員を救助する為再び北上する。

十八時頃、海上で浮いている兵員を救助する。彼らは海上に浮いた重油にまみれて、頭から足の先まで真っ黒だった。泳ぎの達者な人は海岸に行った由。

十九時頃、救助作業を終え、再び南下する。

舞水端里

翌日早朝(時刻不明)薄暗い時刻に城津(小さな漁港の様な港でした)の沖に船を止め、救助した兵員をカッターボートで何回かに分けて上陸させる。

ちなみに、以上の記憶と船の速度(最高八ノット)、それに航行時間から、第八十二海防艦の沈没地点は、魚大津沖と考えられます。なお海防艦艦長の手記にソ連雷撃機の空襲が三回あったとありますが、私が見たのはこの一回で、後の二回は海防艦だけが他の地点で受けたのではないでしょうか。

○ 舞鶴で下船

混乱と、あー終わったなと思う中に向日丸むかひまるを下船したが、なぜ(菊池)局長と連絡できるようにしておかなかったかと後日悔やんだことでした。半世紀過ぎた今、よく連絡して下さったと感激し、熱い思いで本を読ませていただきました。

同級生の中には未だに連絡がとれず、消息不明の者が沢山居ります。それに比べて今まで生きてこられた幸運を感謝し、元気で長生きできればと考えて居ります。

©2003 Kaneo Kikuchi

表紙 目次 前頁 03-18 次頁