平成十五年九月
菊池金雄
同友会(元大同海運OB会)のルートで彼を探しても所在不明だったが、元昭豊丸次席通信士谷津氏の協力で同窓会名簿から平成十五年五月十八日、岡山市在住が判明したので電話してみたところ、元気な声の主は本人だった。
そこで取りあえず拙著を贈り、私の記憶ミスや欠落点などの助言を求め、早急に何処かで再会しようということになった
終戦記念日の八月十五日に神戸の「戦没船と海員の資料館」で戦没船員の追悼式があるので前夜神戸市大倉山海員会館に泊まり、翌日一緒に追悼式に参列することを約束した。
私は体調を整え当日空路大阪経由で神戸に向かった。三宮で昼食後、前記資料館で確認したい用事があったので、折から土砂降りの雨のなかをタクシーで同館に回ってから宿に向かう。首尾よくフロントで彼と五十八年ぶりで再会。終夜昔日の四方山話に花が咲いた。
戦後、彼は大同海運から大洋海運に転籍したため、大同のOB名簿未記載と判明。同社の船に定年まで勤務したが、最愛の奥様が十年程前病没されたとのことで同情を禁じ得なかった。幸いご子息二人はご近所にお住まいで、彼の携帯電話には孫娘さんの微笑みがインプットされていた。
翌日二人で追悼式に参列後、彼曰く「神戸まで出てきたのだから、是非岡山まで足をのばすよう」誘われたので岡山市の彼宅に泊めてもらうことになってしまった。
丁度同市には大同OBの白石氏も居るので、彼のクルマで夕刻訪問して旧交を温めることができた。
彼から得た
(一) 玉野出港・・・五月二十日であること。
(二) 小川次席発病時は洗面器で大量の喀血を受けたり、汚れた衣服を洗濯したこと。
(三) 同次席が入院するとき、空爆の合間をぬって陸軍病院まで付き添ったこと。
(四) 警戒隊員がソ連機に猛反撃時、隊員負傷者続出のため若手船員にまじり、若手士官(当時二十歳)の彼も空爆下、機銃弾運びを支援したこと。
など、私の記憶欠落点を昨日のことことのように語った。私は遅まきながら往時の労に対し只々低頭するばかりであった。
幸い翌日から好天となり、彼は二日間マイカーで周辺の観光案内に繰り出した。(写真は神戸「戦没した船と海員の資料館 」にて。)
瀬戸大橋ー大原美術館ーチボリ公園ー後楽園など、軽快なハンドルさばきで案内してくれた。大原美術館周辺は紡績工場の跡地で、戦時中同工場には軍需品組み立て作業等で女子学生も動員され、彼の奥様も此処で奉仕された追憶などを問わず語りし、愛情の一端を垣間見る思いに駆られた。
彼とは終戦間際、生死の狭間で短期間同船しただけにもかかわらず、厚き友情に長生き冥利を満喫した半世紀後の出会いとなった。
そして彼は別れ際に「来年五月観音崎の追悼式に参列する」と明言したので、お互い自愛につとめ再会を約し、その際「みちのく観光を」と誘った。
十七日の午後から雨模様となり、私は岡山発の新幹線で帰途につき、東京までの沿線風景を瞼に刻む。そして空席の目立つ東北新幹線に乗り継ぎ、関西圏の殷賑に圧倒された旅を終えた。夜の仙台は静かな雨だった。
©2003 Kaneo Kikuchi