平成十五年九月八日
元甲板員 野口留三
(当時十五歳)
新造戦標船
途中、米軍機による機雷投下の情報があり仮泊ー航行許可を繰り返し、六月七日頃に若松に入港。バンカー(燃料石炭)を補給して釜山に向け出港しました。
記憶では船団ではなく単船にて潜水艦の見張りを続けながらの航海だったと思います。幸い途中敵の潜水艦にも遇わず無事釜山に入港しました。
釜山ではコウリャンと大豆を積み込み門司に向かいました。入港前、関門海峡に米軍機から多数の機雷投下があったため入港禁止となり、日本海側の青海湾に仮泊して門司に入港の許可を待ちました。
此処には五〜六隻の船が錨を下ろして居ました。二〜三日仮泊の後入港許可があり門司へ回港することになりました。しかしその前日湾の入口に機雷が投下され、海軍の掃海艇が機雷処理を行い、一応安全ということだったのですが各船とも触雷を恐れて一番に動く船が無く、それを見た西船長が「それでは本船が一番に出て行こう。機雷は音響か磁気機雷だから必ず触雷ということは無いー運を天にまかせて出よう。機関が動き出したら全員船首に集まるように」と指示して本船は動き出しました。
そして
そして積み荷陸揚げ中に空襲があり、又々関門海峡に機雷が投下され、その一発が
この空襲機B29に向かって特攻機一機が体当たりを敢行、火煙とバラバラに落ちる特攻機、この後をゆっくり墜落するB29、その時落下傘で脱出した搭乗員が海上で捕まり、岸壁にある門司海軍武官府に護送されるのを見ました。(戦記参照、昭和二十年七月十日、機雷敷設任務B29#42-93939撃墜、飛行第四戦隊木村定光少尉戦死、脱出したJack J. Roy軍曹は西部軍司令部に送られ処刑されたと記録されている=菊池)
又
文中の機雷・触雷と言っても一般の方は、テレビや映画の戦記物で見る丸形で触覚のある敷設機雷を想像されるかも知れません。西船長の「一番だからー必ず触雷するとは限らない」と言う言葉や。二番船・三番船が触雷したことに疑問を感じる方もいるかと思いますので私の聞き覚えと、門司で見た現物に就いて追記します。
当時米軍の投下機雷は落下傘で海中に落とされ、海底に沈み、その上を通過する船のスクリュー音、又は船体の磁気を感知して自動爆発する仕掛けです。特に水深の浅い所ほど通行船の被害が大きいと言う訳です。又、その上を通過しても即、爆発と言うものでなく、ゲージの様なものが作動して、発火点に達したときに爆発するという(野口氏イラスト参照)航行船舶にとっては避けようのない巧妙にできた代物でした。
(参考)第二時大戦に於けるアメリカ陸軍航空軍戦闘日誌 による九州方面の7月度機雷敷設記録 |
揚げ荷終了後ブイにシフトして次の航海の指示待ちをして居るときに、下関、続いて門司と空襲を受け両市とも大火災となり、船上からその悲惨な情景を望見。また本船でも乗船の警戒隊が25ミリ機銃で応戦を続行。私達は船首の弾薬庫より機銃の弾運びに懸命に協力しました。(七月二十九日の大空襲と思われる=菊池)
そして七月末に羅津に向かった筈です。途中船団を組んだかどうか記憶が定かでありませんが、私は単船だった様に思いますが、心の隅には三隻程の船団だったかな?と言う思いもあります。
航海中は甲板部員一同は「マストの見張り台」、「船橋」と見張りに立ち、本船は之字運動を続け、無事羅津に入港したのは八月六日だったと思います。
羅津では着岸して大豆の積み荷を開始いたしました。ところが八月八日深夜から突然空襲が開始され、九日は終日ソ連爆撃機、雷撃機の波状雷爆撃に晒されました。
岸壁に接岸中の
九日夜間の一部乗組員の陸上退避のときは、特に甲板部員は保船のため在船していましたが、着岸している横の倉庫が被弾して火災を起こし、船の消化栓にて放水、消火活動を続け、鎮火させました。(羅津港岸壁イラスト、那和氏提供)
八月十日羅津脱出を決めたのですが、本船の後ろの船が岸壁より離れて沈没しているので、田中一等運転士が「タクボート無しではとても出せない。船長を迎えに行き、帰られてから決める」との事で、陸軍病院へ船長を迎えに行き、帰ってこられた西船長は「よし出よう」と言って、タクボートなしで、然も後進にて離岸、無事沖に出る事が出来ました。(離岸操船の見事な技術に、さすが西船長だと皆で話し合いました)
沖では商船のメルボルン丸が被弾し、沈没のおそれがあるため自力で浅瀬に向かい座礁しておりました。
羅津港をあとにして南下をしていると、再び敵機の来襲があり、本船めがけて魚雷を投下してきました。確か敵機は二機だったと記憶しています。二発の魚雷をどうにか避けて敵機も去り、やれやれと一息をついたところ、今度はエンジン故障との事。機関部員が必死に修理に当たり、復旧した時は座礁寸前で、陸地の岩肌が目前に迫っておりました。
安堵の思いで航行を再会して間もなく海防艦82号と逢い、海防艦より手旗信号にて「羅津に商船護衛に向かっているが、港に残存船舶ありや」と問い合わせがあり、本船から「残存船舶はあるも爆撃のため航行不能で、本船が可動最後の船」と答えると「それではこれより貴船を護衛、元山に向かう」と、反転して本船に並行、護衛の任に就いて呉れました。そのとき「前日にも敵機と交戦した」との連絡がありました。
それからしばらく航海を続けていたところ、再度敵機の攻撃があり、今度は二十機程の編隊で、主として魚雷攻撃の様に思います。
本船も海防艦も必死に応戦し、本船も二〜三機撃墜しました。その応戦中に大きな爆発音がして水煙があがり、それが無くなると今迄横にいた海防艦が艦首をわずか残して沈没して行くのをはっきり確認致しました。
敵機は海防艦が沈没すると「それで終わり」とする様に去って行きました。この戦いで敵機を五〜六機打ち落としたと思います。
敵機が去ると船長は即時機関停止を命じ、海防艦乗組員の救助を指示、舷側に救命ネットを下げ、伝馬船を下ろし、直ちに泳いでいる海軍兵の救助活動を開始しました。
私は伝馬船に乗り、泳いでいる人を引き揚げて舷梯まで運び、又戻っての救助作業を何度も繰り返しました。付近海面は海防艦の燃料重油の油幕のため真っ黒で、泳いで居る人は皆「目が痛い、目が見えない」と言えながら救助を待っていました。
その中に長髪の人が居り「敵の人間だろう」と近寄ると「私は艦長だ。怪我をした部下から先に救助してくれ。私は泳いで船迄行く。」と言って、舷側のネットの方へ泳いでいかれ、部下を思う一言に「非常に強い感銘」を受けました。
(以後の行動は菊池さんの書かれた通りで補足することはありません)
イ 当時船員は鉄兜を使用していません。
ロ 羅津を脱出して南下中は之字運動を行っておりました。
ハ 元山入出港に就いてはほとんど記憶になく、日本へは船団を組んで帰ったのか、単独航海だったのか、私の頭の中では単独だったと聞こえるのですが判りません。只、元山から帰る途中に終戦の放送を聞いて生き残ったと言う想いと、今までが何だったのかと言うむなしさを心に抱きながら、元山を出てから船橋前に張りつ付けようとした「敵機撃墜マーク」を取り止めた事を覚えて居ります。
ニ 舞鶴港外の伊根に仮泊して舞鶴入港の指示を待ちました。
数日後港内に移動を始めた時、確か辰馬汽船の辰宮丸だったと思うのですが、本船の横を追い越して先に進んで行きましたが突然触雷して動けなくなり、お陰で本船は無事港内に入りました。
(戦記参照=触雷船は辰春丸と記録されている=菊池)
ホ 入港後警戒隊の皆さんは原隊に戻ると言って、すぐに下船して行きました。全員で二十名程だったと思います。
ヘ その後本船は十二月中頃迄航行が禁止され、舞鶴に停泊を続けました。
©2003 Kaneo Kikuchi