羅津脱出

平成十七年七月
向日丸むかひまる機関員 須永政司
(当時二十歳)

○ 向日丸乗船経緯

タンカー宗像丸(2TL)が昭和二十年一月二十一日基隆港内で爆沈後に岡山県玉野で向日丸に乗船した。

当時向日丸機関科には指導員として海軍兵三名(一等下士官二・兵一)が派遣され、また、○○少尉以下海軍警戒隊員も若干名警乗していた。

○ 羅津の状況

向日丸は第一バースに係留し、満州から集積された雑穀類を搭載荷役中だった。街に出て、丹下左膳(大河内伝次郎)の看板を見たことや、豆腐屋で豆腐を食べたことなど・・・諸々思い出す。(羅津港岸壁イラスト、那和氏提供。羅津市街地図、福地孝氏提供。)

 

夜間には時折港口付近にB二十九から機雷投下があったが陸上や在港船への爆撃はなかった。ところが昭和二十年八月九日午前零時頃羅津港の上空は突如二発の照明弾で港内は真昼のように明るくなり、ソ連機編隊が次々と港湾施設や在港船に対し波状爆撃を開始した。

ソ連機と判明したのは双発機なので、まさか米軍双発機が此処までと・・・味方部隊からは高射砲による応戦がなかったが、何基かの探照灯で機体のソ連マークがはっきり確認できた。多数の在港貨物船団は直ちに応戦するも岸壁の倉庫や僚船が相次いで被弾、炎上。向日丸警戒隊員は敵機と必死に交戦、負傷者続出するも、船体のダメージがなかった。

○ 九日夜間、陸上に避難したときの状況

われわれへの退船命令示達は不徹底で上陸が遅れ、埠頭近くの山をくりぬいた防空壕は陸兵で満員のため拒否され、やむなく同僚と二人で山の中腹から在港船が爆撃される悲惨な情景を見て一夜を過ごした。多分菊池局長等が避難した防空壕より一〇〇メートルぐらい西方の山だったと思う。

朝になったら麓で「向日丸乗組員はすぐ帰船せよ」と海軍兵の声が聞こえたので船に戻ったところ、タラップを楊収する寸前だった。

○ 羅津脱出

タラップを上げ出港したのは午前六時頃と思う。直後・・・前方の船が触雷(船名不詳)・・・本船はその横をスローで過ぎるとき、その船の船員達が手旗信号または大声で「貴船の安全航海を祈る」と涙して手を振り・・我々も「皆さん無事帰られんことを祈る」と答えた。

上空には時折、敵爆撃機が飛来するも本船には被害がなかった。

○ 海防艦と会合〜海防艦轟沈・救出

一路南下避航・・・清津沖で一時停船後・・・再び南下・・・北上中の海防艦(事後、七四〇トン型八十二号と判明)と会合・・・「羅津に在港船ありや?」に対し「本船が最後」と回答・・・海防艦より「われ元山まで貴船を護衛する」と手旗信号があった。

しばらく並船して南下・・・ソ連雷撃機来襲、第一波は撃退。さらに第二波と交戦中・・・
海防艦が被雷・・・艦が二つに割れ・・・正に轟沈・・・

 ソ連雷撃機と応戦の際は、私たちも機銃弾運びを支援した。向日丸に魚雷が当たらなかったのは積荷が少量で喫水が浅く、魚雷は船底を素通りしたためと思う。海防艦乗員救出の際はカッターを漕ぎ十名くらい救助。泳いでいる群れに一人長髪が居たが・・・艦長とは・・・びっくりした。海兵達は重油で体中が真っ黒になり、特に目が痛いと悲鳴をあげていた。救助兵員は途中(城津)で揚陸させ・・・本船は元山向け独行した。

○ 元山―舞鶴

元山出港の際機関が故障したため漂流・・・岩盤にプロペラが接触・・・幸い満潮で離礁し、間もなく機関が復旧したので船団に追いつき、舞鶴向け航海中の八月十五日正午、戦争終結の放送を聞く。八月十六日舞鶴湾に入り仮泊.翌十七日の正午頃?舞鶴港に向かうと、前方より他船(後で辰馬汽船の辰春丸と判明)が本船より先に入港するので、本船はその後につく。

ところが港の入り口付近でドーンと辰春丸が触雷、停止して蒸気を噴出・・・本船はその横をスローにて通過し、無事東舞鶴に入港した。

 なお、入り口より少し入った右側に偽装の軍艦が見えた。事後の調査=二等巡洋艦「酒匂」(さかわ)六七〇〇トン、昭和十九年十一月三十日佐世保海軍工廠で建造。戦後は復員輸送・・・後、ビキニ環礁で水爆実験に供された。

○ 舞鶴に長期係留余談

機関の空缶焚きで修理を余儀なくしたこと。また外聞をはばかるが、夜陰に乗じ韓国人が船倉の大豆を闇買い付けのため伝馬船でこっそり出入りしていた。  

○大天丸に転船−退職

大天丸の通信長は機関員から通信士になったという大変ユニークな山口直俊さんで、私は特に次通士(中野無線卒)と親しかった.同船には昭和二十年十二月乗船し、昭和二十三年三月に下船、大同を退職。その後昭和二十七年八月〜昭和三十六年十月まで海上自衛隊に勤務した。

○ 参考資料
2TL型タンカー 宗像丸 一〇〇四五総トン 戦記

昭和十九年十二月三十一日 〇八二〇門司発、昭南向け航行中の同二十年一月七日一一二七頃
 N二五‐四二 E一二一‐一四(台湾富貴角西北西四十三粁付近)において二番油糟と貨物艙に被雷。浸水を防止しながら、同日二二〇〇基隆に回航、十八番岸壁に接舷して修理中のところ、二十一日〇九一〇より空襲をうけ撃退につとめたが、一四四八大編隊の空爆で中央甲板に直撃弾二発を被り大火災発生。やがて火炎は船全体を包み、船内で誘爆が相次ぎ、一五三五遂に擱座した。
 便乗者六九五名中十二名、船員五名戦死。

©2007 Kaneo Kikuchi

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