昭和五十七年九月発行 ジャパンライン緑水会想出集「みおつくし」より転載
海軍徴用船、恵昭丸(五八七九総トン)は横須賀〜ラボール間を定期航路の様に往復していた。
内地を離れると、太平洋を東航。次に南下するコースで、敵に遭わない航路だった。機銃二丁に兵隊さん十人程の武装では、敵に見つかったら撃沈されるに決まっている。
その頃、速い方の十三節の単独か、僚船一隻の同行とかの航海で護衛はなし。時には、南方行きの徴用漁船や機帆船と同行する事もあり、少し荒れた時の翌朝は全部ついて来て いるかと勘定したり、引返して探したりした事もあった。勿論そんな時は六節位で十日程かかった。まあまあ安全航路の部類だった。
昭和十八年十月始めラボールに入港。積荷はハウス(船橋楼)の前後二艙は雑貨。一、二、五、六番艙にガソリン一、五〇〇缶程積んでいた。ガソリン缶を積むには大変な設備が要る。
本船は戦前米国よりガソリン缶満船で帰った経験があり、艙内の鉄の露出部は総て木板を張り銅釘でとめて、ドラム缶が鉄に触れない様にする。それでも揚荷時に空の缶が出て来た。航海中漏れて蒸発したのである。
十月十二日待機で、軍の許可を取って朝から例の通り停泊作業。船体は浦賀製だが、主機はマンで、ダブルアクチングの難物。
汽筒開放ピストン抜きの作業中「二つ胴の変な飛行機が来たな」と、外舷のペンキ塗りをしていた甲板部員が思ったそうだが、次の瞬間空襲警報が鳴り、一変して修羅場となる。
今まで夜に空襲警報が鳴り、野外の映画鑑賞を中止した事はあったが、昼の空襲は始めて。各艦船は湾外に出て応戦。戦艦は外海で迎撃、主砲を撃って空中破裂させ敵数機を一度に落としたと後で聞いたが、本船は主機開放中で動く事が出来ない。
敵機の反復爆撃、機銃掃射と陸上設備目標の攻撃だったが、段々と港湾設備を爆撃、遂に恵昭丸も至近弾のため、機室と四番艙と外板に弾片で穴をあけられる。すぐに四番艙は発火したが、機関室諸油水管を破られて停電、送水出来ない。
甲板部は据置き用の炭酸瓦斯ボンベを運び瓦斯を艙内に送ろうとし。機関部は再発電の修理手当て、ビルジ弁を外して海水を艙内に送ったが、燻っている所までなかなか浸水してくれない。半時間程工夫したが駄目。港から大発艇が来て、一時陸に避難せよとの令に、 船長の退船命令が出る。もう一度機関室を見廻ろうと降りて行く。
ピストンは天井クレンにブラ下がった儘。下段は外板が破られてゐるので明るく良く見え、誰も居ないことを確かめた後、上に昇り甲板に出てみると、救命艇は皆を乗せて五十米程離れてゐた。「待ってくれ」と叫びながらボートの綱で降りかけると、塗りたての外板のペイントに靴が滑り、綱を握ったままだったので掌の皮を剥ぎ海へ落ちる。
艇から見た陸は、敵機も去って割合静かだったが、アチコチに煙が上がっていた。相当の被害の様である。
恵昭丸は立昇る煙が多くなって来た。陸に着いて五分位、まだ全員が土を踏んでゐなかった頃。轟音と共に天に沖する黒煙を見た。恵昭丸である。ガソリンに火が付いたのだ。 数分後煙が去った後には恵昭丸の姿はなかった。之が轟沈と言ふのだろう。本船がラボール湾内の最初の沈没船で、アッと言う間の出来事である。
陸に収容されて次の日から、救命艇で浮いているドラム缶拾ひに忙しかった。当時在港中の社船、神光丸より裸同然の我々に、見廻品、日用品の見舞いを受けて有難かった。
内地送還を待っている中、十一月二日今度は神光丸が空襲を受け炎上したので、貰った日用品を半分お返しした事が有った。あのときの親切な乗組の皆さんは今どして居られる か。
以後昼間の空襲は段々と激しくなり、定期便と云う程で、その度毎に防空壕へと飛び込 む。防空壕は椰子の丸太で作ってあって運動場の隅にあり、民間人も避難に入ってゐて、 轟音や地響きで壕が揺れると、各自お経や、お題目を唱える。つられて三十五才の私も、 成田の不動さまにお願いしていた。
壕の外の広場の隅に畳二枚ぐらいのスコアボードが立っていて、三回目の来襲の後、弾痕を数へたら二百位有った。凄い機銃掃射である。恵昭丸では兵曹長一人が戦死されたが、乗組員には死傷なし。神光丸もなかった。
後で湾入口の西火山の麓へ行った乗組の者が大鉄板と本船の飼猫の死骸を見つ付け、葬ってやったと聞く。投錨地より相当遠い所である。
帰りの船を待ってラボールホテルに居た時、船長が「僕の退船命令を聞きましたか」と云ふので「ボートデッキで聞きましたよ、聞かなきゃ退船出来ないですよ」と云ったが、 誰もがあの時の事を反芻回顧してゐるんだなあと思った。
又、退船する時船長室の金庫が開いてゐたが「船長金持ってきましたか」と尋ねる者がいたが、「前の船でやられた時、金を持たずに退船して皆に迷惑をかけたから、今度は持って来たよ、地獄の沙汰も金次第、金が要るよ」と。
それにしても煙の昇っている四番艙で、炭酸瓦斯を何とか吹込もうと努力している平潔一航士の勇敢さには頭が下る。彼は後の船で戦死したと聞いた、御冥福を祈る。
恵昭丸のガソリンが無事陸揚げされてゐたら、あの有名なラボール航空隊はもっと勇名を馳せてゐた事だろう。
著者付記
私は恵昭丸に昭和十七年三月まで乗船していた。当時の船齢は十四年のはずで、エンジン保守の苦労が忍ばれる。それにしても前線で整備するほどの過密な兵站輸送と揚荷作業の手ぬるさが災いした戦没ではなかろうか。この船は私の初乗船で、辻川さんには色々お世話になった。既にご逝去の由、ご冥福を念ずるばかりである。
読者の便を鑑み独断で小見出しを追加した。抜粋・転載の不備はひとえに著者の責任である。
©2003 Kaneo Kikuchi