秘史その三

東部ニューギニア
 ダンピール海戦秘話

平成十五年十二月 大同海運OB 川崎 稔

 ○ 「漂流の記ダンピール海峡」

平成一四年二月東部ニューギニア慰霊巡拝団の一員としてニューギニアに行って来た小生の知人から、その時の戦没者慰霊と遺骨収集の旅の記行文、写真等とともに横板氏の「漂流の記ダンピール海峡」なる壮絶、凄惨極まり無い海戦記を拝見させて頂いた。

横坂氏の記述は、搭乗船(神愛丸)の被爆状況から五日間の海上漂流まで生死の境にありながら冷静に記憶に留めておられ、その非凡な精神力に深く敬服しました。

丁度その時、私は必要があって知人から「日本郵船戦時船史」を借り受けておりました。この船史は上下二巻二千ぺージにわたる貴重な記録で、昭和四〇年末から四六年迄五年の歳月をかけて編纂されたもので、昭和一六年から二〇年迄の戦時下に遭難した日本郵船二三七隻、三菱汽船四八隻を確実な資料と生存者の談話とを基に各船毎に遭難前後の状況を詳細に記述したものです。

 ○ 太明丸の記録

「漂流の記」を読んだとき、すぐ「郵船戦時船史」を開いて調べました処、横坂氏の乗られた神愛丸と同じ船団にいた太明丸の記録を見つけました。

昭和一八年三月陸軍第五一師団の七〇〇〇名の兵員をラバウルから劣勢のラエ,サラモア地区の部隊に投入する為の輸送作戦で八隻の船団がダンピール海峡に差しかかった際,米軍の爆撃機群から連続攻撃を受け八隻の輸送船、四隻の護衛駆逐艦が撃沈されるという「ダンピール海峡の悲劇」として太平洋海戦史にも特筆されている悲劇的海戦であったが、船団を組みラエ・サラモア増強輸送作戦に参加した輸送船は横坂氏搭乗の神愛丸、太明丸、帝洋丸,愛洋九、大井川丸、旭盛丸、建武丸、特務艦野島の八隻であつた。護衛には朝潮、荒潮、時津風、敷波、浦波、白雪、朝雲の八隻の駆逐艦が付いており、戦闘機も一機か二機上空を警戒しつつ航行していた。

私は撃沈された太明丸の生存者の次席通信士鈴木作次氏の記述を郵船戦時船史中に発見し、その船団壊滅の状況と横坂氏の記述はほとんど符合しており、良くぞここまで記憶しておられたと驚きました。

両者とも生死の境を潜り抜け奇跡的に生還するという超人的な精神力の所持者であった。

太明丸鈴木通信士の遭難記を要約して記述する。

 

 ○ 太明丸の最後

三月二日夜明けと共にB17十数機が飛来し船団に襲いかかった。わが方も対空砲で応戦したが旭盛丸(大同海運所属船)が敢え無く撃沈された。

翌三日午前八時約二〇〇機の敵機来襲す、急降下爆撃機が編隊で各船を執拗に攻撃した。太明丸も必死に応戦したが撃墜した敵機が不運にも船橋に突っ込み大爆発し、船長始め幹部船員全員が即死した。(49名の乗組員中、生存者5名)筆者鈴木氏は一時失神していたが意識を取り戻して甲板上に出て、逃げ遅れている陸軍兵を案内してかろうじて海中に飛び込んだ。付近の僚船はすべて炎上したり沈没している模様だった。

正午頃駆逐艦荒潮に救助されたが、荒潮も敵機から再び攻撃を受け午後一〇時半、航行不能となった。幸い僚艦雪風に救助されラバウルに帰着することができた。

輸送船に満載された軍需物資、兵器、乗組員の殆とと将兵三六六四名がビスマルク海に消え作戦は失敗した。

尚、横坂氏の所属した第五一師団の残存兵は他の、一個師団と合流し、ラエ、サラモア付近に展開し東部ニューギニアの防備を固めたがマラリア、赤痢、食糧不足で一八年六月には一万名位の兵員を有していたものが二ヶ月後には八千名になっていた。

残存兵は標高四千メートル級のサラワケット山脈を踏破してマダンまで撤退したが山中で多くの兵を失った。重火器などは既に失っていたので米濠連合軍との衝突を避けながら西へ西へと飢餓行軍を続けたという。

第一八軍として東部ニューギニアに上陸した一四万の兵力は終戦後、引揚げ時には一万名足らずになっていたという。安達第一八軍司令官は部下の帰還を見届けた後、収容所において自決されたということである。

 

 ○ 旭盛丸の最後

前述の旭盛丸は、大正九年バンクーバーにて建造(八六五六屯)昭和十六年大同海運所属となり、御用船として徴用され、十八年三月二日早朝グロセスター岬北西海上にて被弾、沈没した。兵員四六四名、船砲隊員二十一名船員一名戦死す。と「日本商船・船名号」に記載あり。

(参考)1943(昭和18)年3月2日ビスマルク海でB-17爆撃機の爆撃を受け被弾炎上する「旭盛丸」

 

 ○ 無防備な輸送船

日本郵船の戦時船史は自社船の遭難状況を詳細に記述すると共に、太平洋戦争における日本海軍の海上補給作戦に対する認識、施策が全く前近代的で輸送船団護衛用の艦艇、航空機、潜水艦など開戦当時まで全く用意されていなかったという。信じられない様な無能、拙劣極まる戦略について繰り返し批判を加えていた。

軍部は輸送船舶の消耗や輸送能力の限界を無視して戦域を拡大し、無防備の輸送船に十分な護衛艦の配備もせず杜撰な補給作戦を強行した為、ミッドウェイ海戦の敗北によって制海権と制空権を失うや忽ち米海軍潜水艦の好餌となって輸送船団は次々に撃沈され輸送路は分断された結果、ジャングルに送り込まれた兵士たちは武器も食料も補給されず、戦闘を交えることなく餓死したと書かれている。かくして多くの兵員を無残にも失い南方作戦は大失敗に終わり、敗戦を決定的にしたのである。

 

 ○ 戦没船員の碑

私は昭南島(シンガポール)の海軍基地に大同海運から出向し、子会社大興運輪の社員と共に、終戦迄二千名の現地労務者を使って軍需物資の揚搭作業に従事した。兵員や軍需物資の輸送に身を挺し兵士同様に闘って死んでいった海員や終戦後海外からの六四〇万人の引揚者の輸送に献身した海員の方々は私達と同じ仲間であると思っている。

日本海軍の兵站輸送護衛軽視の愚かな戦略に黙々と従い、陸海軍の兵士に勝るとも劣らず勇敢に挺身、二三九四隻の輸送船と共に六万五四五名の海員が散華しました。

これらの方々は「戦没船員の碑」に祀られています。房総半島が遠く霞み、大小の船舶が行き交う浦賀水道を見下ろす三浦半島、観音崎灯台下の丘陵の樹林の中に「戦没船員の碑」がひっそりと建っていました。
毎年五月に慰霊式典が催されるとのこと。平成一二年五月の三〇回慰霊祭に初めて天皇皇后両陛下が参列された由、その一年後の一三年五月、私は機会を得て「戦没船員の碑」に鎮魂の願いをこめて額ずいてきました。

付記
 菊池の一存で小見出しを追加しました。編集の責任は菊池にあります。

©2003 Kaneo Kikuchi

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