大同海運 OB 菊池金雄
今日まで該船の被弾後の記録が見当たらなかったが、船舶工兵第八連隊吉田武中尉の手記がsinomanWebに載っていたので、その要約を加味して同船船長の的確な退船指揮並びに被弾炎上下の緊迫場面を再録してみます。
旭盛丸(大同海運 5,493総トン)は 八十一号作戦(第1次ラエ輸送作戦)に参加。昭和18年2月28日ラバウルにおいて兵員1,316名、火砲11、車輌12、軍需品2,000立方メートル、大発4を搭載し23時30分ラエ向け出港。船団は二列縦隊で、旭盛丸は左側列の先頭を9ノットで航行中の3月2日07時55分頃、グロセスター岬北西海上においてB17七機が来襲、内三機が本船に狙いを定め08時05分高度2000米より爆撃を開始した。
本船は敵機に応戦と被弾回避航法につとめたが、左舷側に至近弾一発落下のため船体が衝撃をうけた。08時15分頃二弾目が一〜二番ハッチに被弾、同時にブリッジ前半分が飛散し、一番ハッチが火炎につつまれた。このため倉内の兵員室は肉塊が飛散、負傷兵たちが苦悶するする地獄絵図と化した。
一方、船倉に積み込んだガソリンに引火〜爆発のため、甲板に脱出する階段が爆風で吹っ飛び、船倉内の兵員は甲板に脱出することができず、阿鼻叫喚の修羅場と化した。それでもやっと一名が垂れ下がったロープで必死に甲板に脱出することができた。
被弾のため船速が急速に低下したので船団から脱落し、約30分後に船長から「機関室に延焼してきたので退船準備」が下令された。
各中隊員は銃を担い、最小限の食糧を雑嚢に収め、三人一組の班を編成。それぞれ乾パンの空き箱利用の浮きを携行して舷側で待機していた。
当時、本船の船足は停止状態となり、まもなく“退船用意”が下令された。各班は携行の浮き輪・携行糧秣入りの缶・ブイ・竹材・予備浮き胴衣等あらゆる浮くものを海面に投げ込んだ。
その後間もなく輸送指揮官の“全員退船”命令で一斉に海に飛び込み始め、同時に舷側に吊り下げてあった救命艇も海面に降下された。
重傷者はロープや戸板でつり下ろされ、無傷のものは舷側に吊り下げてあったロープを伝わって海面に下りた。
船倉の中は黒煙が濛々と充満し、間断なく砲弾が誘爆していて近寄れなかったが、負傷者を見つけ次第元気な兵士が担って右舷に運び、一人ひとり吊り下げていた。しかし徐々に本船の沈没が切迫してきたため戸板に括り付けたまま海へ投げ下ろすしか手段がなかった。戦友を助けるにはこのような方法しかとれなかったことはなんとしても惨めな仕儀ではあった。
本船の右舷が海面すれすれに傾き、左舷側の赤い横腹が剥きだして、巨大な怪物が眼前に迫ったような感じだった。
被弾後一時間ほど経過して甲板上の騒ぎが収まり、甲板には兵士の姿はなく、寺田中尉が「中隊員全員待避」と中隊長に報告した。
見渡す限り周辺海面に船影は全く認められず、海上に脱出した兵士の姿が点々と視認され、ハッチ内の砲弾破裂音もまばらになってきた。
そのとき船長が走りより“もう危ない!”と警告したので、中隊長等は右舷手摺りを乗り越え、一挙に海面に飛び込み、漂流隊員のグループに合流した。
そのとき本船は見る見るうちに船首を海中に突っ込み、船尾が水面に盛り上がり、やがてするすると海中に没した。暫くして腹にずしんと衝撃があったが、これは本船が着底した余波であろう。やがて海底から砲弾の破裂音が間隙的に伝わり、味気ない旭盛丸の最後であった。
また、小泉日記には旭盛丸の沈没情景を次のように描写している。
波間から旭盛丸を見ると、黒煙を吐きつつ船首を真下にして船尾を高く中空に持ち上げたかと思うと、甲板上のすべての搭載物がガラガラと音をたてながら茶色の埃を噴き上げて海中に吸い込まれていった。
ハッチ上の大発動艇が海面に押し出され、ブスブスと余燼をあげながら海上を漂い、やがて海中に没した。この大発動艇内には戦友の幾体もの遺体が収容されていたことを思うと心が痛む。
暫く泳いでいると中隊本部の湯田曹長のグループと合流。同曹長は「各人名前を言え」と怒鳴り、方々から申告されたが、返事のない戦友への呼びかけはいつまでも続くのであった。
旭盛丸は遂に09時26分沈没。直ちに護衛の駆逐艦「朝雲」と「雪風」が救助にあたり、生存者819名と山砲一門を収容のうえ、そのまま先行してラエに揚陸することができた。
上陸した丸腰の隊員達は仮眠から目覚めた翌三日、本隊到着を首を長くして待ったが遂にそれらしき動きは関知できなかった。水平線彼方には黒煙が望見されたので船団が空襲に曝されているものと推察されたが、船団全滅の情報は敵機から撒かれた「投降勧告」ビラで、敗戦気配を実感せざるを得なかった。
戦死者は乗船部隊464名、船砲隊21名、船員1名(司厨部;中 政治)で、沈没位置は南緯05度02分、東経148度14分(グロセスター岬北北西55Km付近)である。
付記 本稿は一部、(財)日本殉職船員顕彰会提供資料も引用。
©2010 Kaneo Kikuchi