秘史その四

開戦前夜東京湾口での触雷事件

平成十六年十一月 菊池 金雄

触雷SOS

この話は半世紀前、太平洋戦争開戦前夜の奇妙な事件であった。それは、日本の貨物船(船名失念)が昭和16年12月7日の深夜東京湾の入り口で触雷したため、国際遭難電波である500キロサイクルでSOSを発信したことである。

誰も翌日開戦することなど感知するはずもなく全く不思議なSOSであり、普通なら最寄り海岸局や付近船舶が救助のための情報交換通信が殺到するのであるが、なぜか後続情報がなく尻切れトンボになった。

当事私が乗っていた恵昭丸(大同海運貨物船 5800総トン)は横須賀鎮守府所属徴用船で、南洋委任統治の島々の海軍航空基地に、ドラム缶入り航空ガソリンの輸送任務を終え横須賀軍港に向け帰航中であった。本船内でも「一体日本海軍はどうなっているのか」、と不信の声がでた。

 ○ 開戦ニュース

翌8日朝開戦のラジオニュースがあり、本船が横須賀に入港しようとしたら、海軍の内火艇が航路を先導したことは、前夜のうちに機雷による防潜柵が敷設されたものと推測された。

思うに、このSOS電波は米国など外局の無線局でもキャッチされた可能性があり、機密保持上からも遺憾な事件ではなかったろうかと、鮮明に当事のことが想起される。

 

 ○ 消えた情報

このことについては当ホームページ第一部の恵昭丸の章で触れているので、どこからか同SOSをキャッチした情報を期待していたが、いまだ何らの関連通報も得られないので、先般JCS(銚子海岸局)と、JGC(横浜港務部無線局)の当事のOBの方に問い合わせたところ、JCSにはそのころ海軍の情報将校が派遣されており、この種機密に属する無線情報はただちに封印されたためかこのSOSに関し耳にしたことが無いこと。またJGCのOBの方は、たまたま12月8日の朝、通信当直の引継ぎを受けたが本件のことは引継ぎ事項に含まれていなかったとのことであった。

若しこの事件に関し何か情報をお持の方がおられるなら是非ご一報いただければ幸いに思う。

 

開戦当日、豊後水道でのタンカー触雷

さんぢゑご丸(三菱汽船 7269総トン)は、昭和16年11月5日、呉軍港で海軍徴用船となり、徳山港で重油を満載し12月8日の開戦当日、台湾方面艦隊への補給指令を受け、豊後水道を南下中、日本側の機雷堰で触雷、船底に損傷を受けて因島ドックで3ヶ月の大修理するというがアクシデントがあった。

この偶発事件は、徳山港を出港する際、海軍側の航路指示不手際によるもので、当然船長は咎めを受けなかったが「乗組員は緒戦時の華々しい戦果を聞きながら、侘しい気持ちで修理しなければならなかった」という。

(この項の出典:日本・油槽船列伝/松井邦夫)

 

筆者所見

前段の触雷事件は深夜にSOSが発信され、夜間の電波は相当遠距離まで到達するので、開戦日秘匿面からも遺憾な事案と思う。

私は職務上、この遭難通信は無線業務日誌に記録したのであるが、手元にはメモもなく、今日当該船名・コールサインとも失念し、追跡調査の手掛かりがない。しかし、恵昭丸は初乗船の船なので、コールサイン(JRRB)は鮮明に記憶している。

また、この二例の触雷事件は、何れも海軍側の放漫な体質に起因する全く遺憾な重大不祥事と思慮されるので、識者の検証を望みたい。

©2004 Kaneo Kikuchi

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