平成二十一年十一月三十日 菊池 金雄
出典:海面防備(対潜・対機雷)関係者回想所見集「横須賀防備隊機雷長林幸市大佐手記」
久里浜東方海面 敷設地点の水深対応の結止機雷敷設
敷設艇 夏島 猿島
浦賀港東方海面 防潜網設置
敷設艇 曳船 通船
島ヶ崎東方海面 九二式機雷敷設
防備隊全艦艇で敷設
この機雷は陸上管制の聴音機雷で、炸薬量は五〇〇トンの大型のものを、六個連結一群連を陸上でキーを押すと六個同時に三〇〇〇トンの爆薬が爆発する方式であった。
この防備作業完了と同時に防備艦艇は出入船舶の響導・監視に専従した。
本危険海域に突入した船は次の小型商船一隻だけであった。
この商船は静岡方面から入港したもので、これらの危険区域について何も知らされていなかったため、夜間、防潜網設置海域に入り、推進器に防潜網がからみ動けなくなり、付近艦艇がこのからみを解いたが、幸い機雷爆発に至らず無事離脱することができた。
十二月八日 日米開戦と同時に、剣崎・洲崎の防備衛所は、敵潜潜入に備えて活動開始。水中聴音機の聴知成果は鳥ケ崎指揮所への速報体制を確立した。
防御海面内での電波輻射は十二月六日付「横須賀鎮守府防御海面船舶航行取締規則」により禁止されていたようである。
昭和15年7月: 電報の発信制限(重要通信以外一般電報は発信禁止)された。
昭和16年8月: 内国無線電報検閲局に指定され、横須賀海軍鎮守府から検閲将校が常駐。このころから電波管制が実施された。
1944年: 昭和19年5月: 潜水艦情報、防空警報を1日3回,長,中波で同時放送。
出典; 船舶無線の歴史Web
O氏の証言
昭和19年1月、私が長崎無線局に官立無線電信講習所実習生として勤務していた時には、佐世保鎮守府から派遣された通信関係の海軍特務中尉が監督武官として駐在、業務を監視していた。
S氏の証言
O氏と同じ頃、潮岬海岸局で実習生として勤務したが、海軍派遣武官の特務中尉が紺の制服で日勤していた。
@ 当時各無線局(海岸局)には最寄鎮守府から無線通信検閲将校が常駐して、軍の機密にかかわる無線情報は厳重に監視され、当該、触雷SOSは高度の秘匿案件のため、ただちに封印されたため、各無線局とも本件遭難通信に介入しなかったものと思料される。
A Tの危険海域に突入した小型商船は防潜網が推進器に絡み動けないため、推測ではあるが、救助要請のSOS発信の可能性は否定できない。しかしTの補足にある電波規制のため救援艦艇から電波発射を封印されたものとも考えられる。
B 触雷したか否かの点は、前記SOSでは触雷と報じたので更なる検証を望みたい。
開戦前夜東京湾口の触雷事件の顛末を、国立大学法人電気通信大学の同窓会報「CHOFU Network Vol.25-1」に執筆しましたのでご紹介します。 (著者は同大学の昭和14年11月特科卒です)
CHOFU Network Vol.25-1. pp52-53. (PDFです。ダウンロードして開いてください。)
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