当時在鮮の日本陸軍は、日本の本土決戦に備え、二分されていたようである。それは、米軍が沖縄の次に済州島への侵攻を予想し、昭和二十年四月に陸軍第五十八軍(約五万の兵力)を同島に分派。朝鮮北部の第三十四軍は関東軍隷下とし、
また海軍は、羅津湾内に水上飛行機五機、兵員百五十名の根拠地隊を設け、輸送船援護策を講じたものの、ガソリン不足で飛行圏が制約のやむなき状態にあった。
他方羅津には陸軍の要塞があったが、防空施設のある高射砲陣地は、同年六月ごろから、泥縄的構築に着手したばかりであった。
この間、ひしひしとソ連軍の重圧が感じられ、日ソ中立条約不延長の通告。ドイツがこの年の五月屈服。ヨーロッパ戦線にいたソ連軍の東方移動の活発化等に対処するため、大本営は南朝鮮にいる方面軍を南から侵攻してくる米軍に備え。北朝鮮の方面軍は関東軍傘下で、対ソ連軍配備と示達していた。
そのころ、軍の某参謀は「ソ連は熟柿戦法だ。柿がまさに熟して落ちるとき出てくるのだ」・・・・・と漏らしていたという。
©2004 Kaneo Kikuchi