満鉄関係者(家族とも六千名いた)は、一般市民と、すこし離れた地区におり、軍と連絡を密にとっていて、十日朝、その日十五時までに水源地[すいげんち]に集合するよう退避命令をうけた。全員は三十六班にわかれ、統制をとりながら、避難をはじめた。
そのころ羅津の港は、岸壁におかれていたドラム缶が破裂して、油が海上に流れ,文字どおり火の海であった。
©2004 Kaneo Kikuchi
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