雄基の町も、羅津とおなじく八日夜十二時前に、十二個の照明弾により全市街が照らし出された。それと前後して、土里にある警察の駐在所は、
雄基の町への爆撃は、羅津より少しおくれて、九日午前五時頃から開始された。
まず港の船と埠頭がねらわれた。船の乗組員で負傷を負った者が、雄基にある羅津陸軍病院に収容されたが、そこだけでは収容しきれず、道立病院にも運ばれた。
九日午後、市街はソ連機の跳梁にゆだね、巴市は山手方面に避難した。
十日朝五時、木原憲兵隊長、郡守、佐々木巴長、梅津警察署長は、たまたま実地調査に来ていた手塚道兵事課長と協議して、九時に巴民に対し退却命令が発せられた。
十一日には、警察署、兵営、憲兵隊、埠頭倉庫を自爆した。
消防司令吉田伊蔵氏(巴会議員)は、十一日夕方まで雄基に残り、その夕刻、ソ連軍艦二隻が入港して、ソ連軍が上陸開始したのを見届けてから避難している。
©2004 Kaneo Kikuchi