かねて、関東軍はソ連軍の侵攻を予期し、まず山間にはいり迎撃態勢をとる作戦をたてていた。
九日午前三時半、雄基郵便局に
午前八時には「ソ連軍は青鶴にいる日本軍部隊を包囲し、列車の運行は停止となり、国境方面との連絡が絶たれた」旨の報告もうけている。
第百二十七師団隷下の慶興の一個中隊は、九日の戦闘で半数を失ったようである。
ところが、羅津、雄基にいる部隊が、いち早く退却したのは,予定の迎撃作戦であった。しかし、雄基付近の、ある部隊は、海上の敵から猛砲撃をうけ応戦中、気がついたら、陣地にいたのは自分たちの分隊だけになっていたので、がむしゃらに南下したという。
羅津から転進したある兵隊は、「国境付近の塹壕で、憲兵隊員が前線に向かって死守する構えをとり。子供を背負った妻が、その壕で炊事しながら『救援を頼みますよ』と言った姿は、忘れられない」と語った。
©2004 Kaneo Kikuchi